※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
19. 『ハムレット』
(1) 概観
四大悲劇の最初を飾った作品にして不朽の名作とされ、その主人公
ハムレットは、狂気を装った言葉の軽妙、その中にも閃く鋭さと痛烈、
そして何より内面に沈降して実行できぬ、その現代的性格の故に、当
時においてはフォールスタフに次ぐ人気を誇り、現在なお衰えない。
そればかりかその人物の抱える問題をめぐって、論説・小説・戯曲な
ど幾多の作品が生み出されてきた。
(2) 作劇年代
初演が1601年〜1602年と推定されており(その理由は福田恆存氏の
新潮文庫『ハムレット』解題には示されない)、製作はその一年ほど
前のことと推定される。1600年以前に遡れば『ジュリアス・シーザー』
と同じ、あるいは更に前に製作されたことになってしまうため、作品
内容のうえから考えづらい。大体1600年〜1601年といったところか。
(3) 出版事情・定本
海賊版の第一四折本が1603年に出版され、それを正す意図からで
あろう。1605年にわざわざ「真正、完全なる写本に随い、ほとんど
原形そのままに増補印刷せる新版」と銘打って、第二四折本が上梓さ
れる。さらに他の作品と同じく、作者死後には第一二折本全集に収録
されている。
このうち善本は第二四折本と第一二折本の両者だが、どちらももう
一方には存在しない部分を含み、定本作製の難問となっていった。第
一二折本を中心に第二四折本で修正を施し、第一四折本も多少参考に
するという折衷型の本が存在し、多くの場合はこの一編を元にして、
注釈者ごとの多少の修正を加えたものが定本として採用されてきた。
しかしドーバー・ウィルソンは『新シェイクスピア全集』編纂にあたっ
てこれらの古版本を検討し直し、むしろ第二四折本こそが中心とすべ
き正典であるとした。理由は簡単で、第二四折本は役者のための台本
が出来た後に不要になった原稿をそのまま出版社に売り渡し、そこか
ら版を起こしたものであるのに対し、第一二折本は原稿を写した後見
用台本から、さらに全集出版のためにもう一度写した稿を出版社に渡
した物で、写すたびに幾ばくかのミスや故意の書き換えがなされただ
ろうとされる。
しかしそれまで第一二折本が重視されたのも故無きことではない。
第二四折本は不注意な植字工の手になったか、いかにも誤植が多く、
しかも校正者はろくに原稿を参照せずに、おのれの勘で修正を加えた
らしい。ウィルソンはこれらを第一二折本を頼りに正し、さらにト書
きに強い海賊版からト書きに関するヒントを得て、『新シェイクスピ
ア全集』を作製した。
(4) 種本となった作品
民間伝承や民族叙事詩のレベルでは、アイルランドの散文叙事詩
「エッダ」やイギリスの「ベイオウルフ」に起源が見出せるようだが、
問題はシェイクスピア自身が目を通したと考えられるものである。
これらの伝説に直接触れていた可能性も当然あるが、まずは十二世紀
末にデンマーク人サクソーがラテン語で記した『デンマーク国民史』
の中に「アムレス」なる人物を主人公としたハムレット物語が収めら
れている。これは既にシェイクスピアの『ハムレット』と道具立ての
上で共通項が多い。その後の1582年刊行された、フランスのベルフォ
レーによる『悲劇物語』には「アムレス」の物語の仏訳が含まれるが、
サクソーとシェイクスピアに共通してベルフォレーに無いもの、逆に
ベルフォレーとシェイクスピアが共有してサクソーには無かったもの
がそれぞれ存在する。両者とシェイクスピアの違いは、アムレスの方
が間者を八つ裂きにして煮くたした上で豚の餌にしてしまうなど残虐
性が強い点、オフィーリアの狂死が無い点、よってレイアーティーズ
との決闘もない点、アムレスは死なない点などだが、他のシェイクス
ピア作品の例を考えると、このうちの何点かはキッドの『ハムレット』
にはあったのではないだろうか。
ハムレットの源流に関する議論が何とも煮え切らないのは、先輩作
家のトマス・キッドが書き、シェイクスピアも明らかに見ていたはず
の作品『ハムレット』が現在は失われており、前二者とキッド作品の
関係も、キッド作品がどこまでシェイクスピアの参考になったかも分
からないからであろう。失われたのは大した作品でなかったからだと
の説もあるが、シェイクスピアの独創になる部分がどれ程あるのかを
知ることはシェイクスピア研究の大きな助けになると考えられ、何と
も惜しい。
(5) 雰囲気・テーマ・思想
四大悲劇中でも高い人気を誇る本作だが、耐え難いほどの悲しみに
満ちた物語かというと、むしろハムレットの周囲をこきおろす饒舌と
陽気な狂気によって、あるいは喜劇かと思わせるような所すらある。
特にハムレットに手玉に取られる大臣ポローニアスや、最後になって
奇妙ななりで登場する廷臣オズリック(彼はポローニアス亡き後の
「手玉に取られる大臣役」として、いわばポローニアス二世として投
入された人物であろう)などは、完全に喜劇的な人物像を与えられて
いる。
『ハムレット』を論ずる際に問題となるのは、まさにハムレット本
人の性格であろう。多くの論者が指摘しているとおり、ハムレットは
亡霊に懇願されて叔父クローディアス王殺害を決意するが、その復讐
を先延ばしにする。そして陽気に饒舌に廷臣や叔父たちを皮肉ったか
と思うと、己の行動力に欠くるを嘆いたり、いささか捉え難いところ
がある。
そこでハムレットとは何者であるのかということだが、自己省察に
慣れ、その省察の目を外部に向けることで世を批判することに慣れた
ハムレットは行動者であるよりは寧ろ観察者であり、悲劇の主人公で
あるよりは専ら道化役なのではないか。道化は人間らしい喜怒哀楽の
主体となることはない、悲喜劇の圏外にいる非人間的存在である。同
じようにハムレットも、その態度は本来ならば人間の織りなす悲喜劇
には関わらず、その圏外から観察するもの、人間だれもがするように
何らかの主体となる事のないものと言える。しかし、この道化は残念
ながら既に人間の織りなす悲喜劇の真っ直中におり、亡霊によって事
件の主体たることを依頼されてしまっている。しかもこの道化は、必
ずしも己を道化と観念してはいない。時には進んで己を主張し、また
勇気ある行動者たることを己に課したりするのである。また時に道化
であり時に悲劇の主人公である彼は、その合間に形而上学をこね回す。
ハムレットの中に人の血を生贄とさせずにはおかない悲劇的要素があ
るとすれば、この分裂こそが悲劇の根元であろう。彼は行動者と変じ
て一刀のもとに事件を決着させることは出来ず、しかし観察者に徹し
て一滴の血も流さず、ただ無害にポローニアスをからかっていること
も出来なかった。そしてどっちつかずのまま形而上学などこねている
うち、陰謀が次々とはずれて手違いによる死者が増えていくという仕
組みである。
陰謀が次々とはずれると言えば、『ハムレット』の悪役たちは随分
と器が小さい。四大悲劇の他の三作品とは比ぶべくもない。むしろハ
ムレットの方が上回っており、彼が劇を支配して喜劇に持ち込む可能
性もあったはずなのである。しかし『ヴェニスの商人』においてポー
シャがみごと劇を支配して見せたのに対し、ハムレットは劇を支配し
ているのは自分だと思いながら、動かずにいるうちに相手の謀略に先
を越される。このように他の喜劇作品と比較すると、やはりこの物語
は流産した喜劇ではないかという感を禁じ得ない。王の依頼でハムレッ
トに探りを入れたローゼンクランツ、ギルデンスターンの死などは、
まったく笑いの対象でしかない。ポローニアスの死もハムレットが遺
体を隠したうえでさんざん煙に巻くようなことを言い、コメディーに
してしまった。オフィーリアの死は涙を誘うところであろうし、最後
の四人の死もあまり笑えないが、そのいずれもが手違いによるもので
あった点、やはりイアーゴーの計画通りに殺されたデズナモーナと一
緒にするわけにはいかない。