※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
17. 『お気に召すまま』
(1) 概観
喜劇時代に着手され、長期間の間に手を加えられて悲劇時代の初期
に完成した作品。森の外で起きる簒奪を含む二組の兄弟の不仲と、森
の中で繰り広げられる元公爵らの気ままな生活や恋の駆け引きという
二種類の色調の場面があり、簒奪者のフレデリック公爵とオリヴァー
を殺そうとしたオリヴァーの兄が悔い改めることで前者の世界は後者
に吸収され、むしろメルヘンチックな感覚さえ漂う森の中で四組の婚
姻がなされる。
福田恆存氏によれば、クイラ=クーチはこの作品の理解にアーデン
の森の「魔力」を強調しているという。そしてアーデンの森を知らぬ
が故に、ヨーロッパ大陸におけるシェイクスピアの鑑賞者、賞賛者に
も本作だけは理解されないという。すると遠く離れた日本でもその理
解は難しいか、はたまた里山を知る日本人には返って親しい感覚か、
ともかくこの劇の舞台は特別な場所であるということだ。変に分析的
に登場人物の行動を検証するよりは、そういうものとして彼らの気ま
まな生活を体験し、その雰囲気に浸ればよいという事になろうか。
しかし、そこに二人の皮肉屋が紛れ込んで彼らを風刺する。レポー
ト作成者としては正直なところ、どう観賞したものかと、いささか途
方に暮れている。
一人の男装女性を交えた三つ巴の三角関係構造は、後の『十二夜』
に引き継がれる。
(2) 作劇年代
本作品は1600年に『ヘンリー五世』『空騒ぎ』およびベン・ジョ
ンソンの『人さまざま(原題不明)』とともに作品登録されているが、
『空騒ぎ』が三週間後に出版されたのに対し、本作は作者死後の第一
二折本まで出版はされていない。これによって本作は1600年当時の
新作で、未だ公演を考えているため、出版する気にはならなかったの
ではないかとの推測が出きる。ただし作中に、完成した後に再度手を
入れたに違いないと思われる個所(脇役の名前の取り違え、台詞に見
られる役の肉体的特徴の取り違え、公爵領簒奪事件からの経過時間に
関するダブルタイム等 ただしダブルタイムに関しては、福田氏はミ
スとしているものの、意図してやった可能性も否定できないのではな
いか)が散見されるため、もっと古くに詩を中心として書き上げられ
たものを、後に散文を多用して書き直したのではないかという想像が
可能で、その場合は道化の言葉に法外な宿賃を云々するくだりがあり、
これを宿賃をめぐる争いで先輩作家クリストファー・マーロウが刺殺
された事件を当て込んだものと考えると、やはり最新の事件を取り入
れなければ意味がないから、刺殺事件の起きた1593年当時が最初の
完成時期ではなかったかと考えられる。以上より、1593年〜1600
年頃と結論できよう。
しかし1600年の登録時に出版しなかったことから、本作が改稿直後
で未だ上演中だったという結論を導いてよいものか。人気がないなどの
理由から出版されない事もあるのではないか。第一二折本まで出版され
なかった作品は『じゃじゃ馬ならし』『ジュリアス・シーザー』本作
『お気に召すまま』『マクベス』『アントニーとクレオパトラ』『あ
らし』などがあるが、これらがなぜ海賊版すら出版されないのか、こ
れらの共通点がどこにあるのか、今ひとつよく分からない。製作時期
が作者晩年にあたるものは当然生前の発行の機会は少ないとして、物
見の人気も関係したであろうと思われるにも関わらず、有名である程
度傑作と考えられているような戯曲とさほどでもない戯曲を大雑把に
分けて統計を取っても、四折本が出版される率は大差ない。現在と当
時では評価が異なったのか。とにかくこれ以上の詮索は断念する。
(3) 出版事情・定本
作者死後の第一二折本まで出版はなかった。この出版までにシェイ
クスピア以外の人の手がかなり入っていると見られる。とくに最後に
突如として結婚の神ハイメンが現れる場面などはいかにも唐突で、ど
うみてもシェイクスピアの手によるとは思えない。そこでシェイクス
ピア自身の書いたものがどのようなものであったかが問題になるであ
ろうが、定本の作成に関しては福田氏の言及がないため手掛かりがな
い。基本的に第一二折本しか残っていない場合は第一二折本を頼るし
かないので、シェイクスピア以外の人間の手がかなり入っているから
と言って、どうすることもできないといったところか。
(4) 種本となった作品
トマス・ロッジなる人物による1590年刊行のロマンス『ロザリン
ド、即ちユーフュイーズ物語拾遺』が直接の材料であり、さらにロッ
ジが参考にした1400年頃(下記の通り1400年に没したチョーサーが
手を触れているので、1300年代末の作ということであろう)の物語詩
『ギャミリン物語』もシェイクスピアは読んでいたかも知れぬと言う。
ただし『ギャミリン物語』は刊行されるのが1721年のことで、ロッジ
がこれを手に入れたのは、チョーサー(1340年頃〜1400)が『カン
タベリー物語』を書くために利用しようとして保管していた原稿を手に
入れるという形であった。従ってシェイクスピアも読んでいたとしたら、
チョーサーからロッジと所有者を変えてきた、その原稿を手に入れたと
いう事になろうか。あるいは誰かが写本した可能性もあるが、出版され
ていないというだけでそれ以上の詮議は必要あるまい。
『ギャミリン物語』は不遇な弟の出世物語である。恋の要素など無き
に等しく、オーランドーにあたる人物のロマンスに関しては、福田氏の
和文要約によれば「美しく操正しい妻を得」たという程度の事しか書い
ていない。これでは何も書いていないに等しい。また長兄に従って迫害
を加えてくる召使いを殺したり、終いには長兄も殺したりと、勇壮なが
らいささか粗暴な感の否めない、男性的な要素の強い物語である。
これに対してロッジの作は、シェイクスピアの筋をほとんど用意して
いる。シェイクスピアがロッジと異なるのは、二人の皮肉屋ジェイキス
とタッチストーン(後述)を生み出したこと、及びアーデンの森に迷い
込んだオーランドーと従僕アダムに関して、ロッジではアダムの方が疲
労に耐えるのに対し、シェイクスピアはアダムに音を上げさせている。
(この点はむしろ『ギャミリン物語』に近く、シェイクスピアが『ギャ
ミリン物語』も読んでいた可能性ありとする根拠であろうと考えられる
が、さほど有力とは言えまい)
(5) 雰囲気・テーマ・思想
悲劇時代に完成しているが、美しいアーデンの森の中で幻想的な世界が
繰り広げられる本作には、あまり暗い影は感じられない。しかし福田氏は
シェイクスピアがゼロから創造した二人の皮肉屋、道化のタッチストーン
と元公爵に仕える貴族ジェイキスに、喜劇時代から悲劇時代への移行の影
を見る。以下に新潮文庫『お気に召すまま』解題から引用する。
(略)……ジェイキスとタッチストーンの役割は微妙である。……(略)
……いずれも同様に森の中にあって、その森の仮象を信じていない。言わ
ば、他の登場人物達が(アーデンの森の)「魔力」に惑わされているのを
傍観し、醒めて批評しているのである。なるほどタッチストーンはオード
リーと結婚するが、それもまた宮廷道化としての附合いといった趣がある。
愚に附合ってみずから愚を実演し、そうすることによって愚を批評し、し
かもそれを肯定して受入れようとしているかのようである。『リア王』の
道化の前身といえる。
だが、ジェイキスの皮肉は更に意地が悪い。最後の幕で万事がめでたく
納まり、旧公爵の流離の生活も終って、後は帰還と復位を待つばかりとい
う時になって、それまで苦労して彼に附き随ってきた忠実を裏切るように
フレデリックの下へ走ろうと言い出す、「あの方の所へ行こう、そのよう
に悔い改めた人にこそ、聞くべき事、学ぶべき事が多々あるもの……」更
に続けて旧公爵始め周囲の人々に祝福を述べた後で、「さあ、皆さん、
精々お楽しみになるがよい、この私は踊りには向いていないのだ」「浮かれ
騒ぎは見たくはありませぬ、何か御用とあらば、お待ち申上げましょう、
もう御用の無くなったあの洞窟で」と言い捨てて去る。下手な役者が演れ
ば厭味になりそうな人物である。が、彼には『リア王』のケント伯の面影
が漂っている。
いずれにせよ、この二人の人物の点綴は、この作品が喜劇時代の終結と
悲劇時代の開始の交差点に立っている事を証ししていると言えよう。(括
弧内は引用者注)
確かに喜劇時代であれば、この二人の人物像は登場しなかったであろう。
タッチストーンは結婚式を挙げるにあたって「吾輩としては何とかこの坊主
に式を挙げてもらいたいところだがな、この御仁なら、ちゃんとした結婚を
させてくれる資格はなさそうだ……ちゃんとした結婚でないとなれば、後で
女房を棄てる口実には持って来いというもの。」などともらす始末で、福田
氏の指摘しているとおりである。が、ジェイキスの隠者趣味は四大悲劇を飛
び越えて、『アントニーとクレオパトラ』や『あらし』に見られる包容力を
想起させる。やはりシェイクスピアの作品史を見て彼の思想の遍歴を追う上
で、解釈の困難な躓きの石であることを白状せねばならないようだ。