II. 作品詳説

※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。

16. 『ジュリアス・シーザー』

(1) 概観
 ポンペイウスを討ったシーザーの凱旋から物語は始まるが、その
始めからシーザーの成功を憎む二人の護民官の姿があり、すぐに占
い師による有名な台詞「3月15日に気を付けろ」が投げられ、ブ
ルートゥスの悩む姿と、それを煽動するかのようなキャシアスの姿、
さらにシーザーのキャシアスを危険視する言葉が続く。冒頭から波
乱含みである。さらにシーザー暗殺の前には様々な天変地異が起こ
り、その中でブルートゥス、キャシアス、その他の仲間達の互いに
ズレを含む思いが交錯し、ブルートゥス・シーザーそれぞれの妻は
夫を思って心乱れる。
 シーザー暗殺後はアントーニアスの演説による大衆の転向を経て、
アントーニアスやオクテイヴィアスの前にブルートゥスが敗れ去る
結末へと続く。『タイタス・アンドロニカス』以来久々にローマ史
に題を採った作品で、このあといくつかの作品でローマ・ギリシャ
が舞台となる一方、英国史は前作の『ヘンリー五世』を最後に見ら
れなくなる。(『マクベス』はスコットランドが中心であり、また
晩年には『ヘンリー八世』を書いたものの、未完に終わった)
 悲劇時代の幕開けとなった作品で、ローマという舞台を意識した
ものか、はた喜劇役者に恵まれなかった故か、四大悲劇にさえあっ
た笑いがまったく存在しない。(本作の制作年と同じ1599年に、
優れた道化役者ケンプがシェイクスピアの劇団を去っている)また
シーザーが批判的に書かれているばかりでなく、それを討った実行
犯達も恨みからの犯行とされており、唯一高潔な志から行動に出た
と認められるブルートゥスにしても、キャシアスとの対比から批判
は免れ得ない。さらに彼等を放逐して新たな秩序を形成するアン
トーニアスやオクテイヴィアスもシーザーが遺書に記したローマ市
民全員への贈与金を減らせないかと画策したりと暗部を見せ、全く
光の見出せない点では四大悲劇を上回る暗さとも言える。とくに大
衆の掛け金を外すように簡単な心変わりは、シェイクスピアが深い
大衆不信に陥っていたのではないかと思わせる。

(2) 作劇年代
 『ジュリアス・シーザー』の製作年代を類推する助けとなるもの
としては、1601年に刊行された『殉教の鏡』という詩がある。献
辞に「二年ばかり前の作」からインスピレーションを得たとあり、
詩の内容はブルートゥスとアントーニアスの演説を聞いた市民の変
節を嘆く内容になっている。すると1599年頃に完成し、初演された
という事になろう。更に、とあるスイス人の旅行記に本作と思われる
作品の観劇記録がある。1599年、藁葺きの小屋でシーザーを題材に
した悲劇を見たと書いている。場所の説明などから「藁葺きの小屋」
というのがこの頃完成したばかりのグローブ座であり、その頃に初演
されたとなれば、『ジュリアス・シーザー』はグローブ座のこけら落
としのために書かれた作品であろうとウィルソンは想像している。
1598年以前は活発に喜劇を書いているから、あまり遡ることはない
として、1599年頃か。

(3) 出版事情・定本
 シェイクスピア生前の出版はなく、本作に関しては死後の第一二折
本が最初の出版である。この第一二折本がそのまま定本として採用で
きるほど傷が少ない。そのためシェイクスピアの台本をそのまま版組
みの原本にしたものではないかとの説もあるが、ウィルソンはト書き
が重複している例や人物の入退場が人物の設定に沿わないなどのミス、
あるいは劇団の役者不足によりが原因と見られる配役・入退場の無理
な辻褄合わせ、二重に訪れるポーシャの死の知らせなどを指摘し、後
見役の手が加わったり、第一二折本出版のための筆写でミスが混入し
たりしていると主張している。しかしこの辺の事情はさほど問題では
ないであろう。
 また、これも面白いという以上のことではないが、どうやらこの作品
に関しては批評におされて台本に手を入れざるを得なかった唯一の例で
あるという。その手入れは第一二折本の段階で既に入っており、よって
その手入れを受けない台本は今に伝わっていないが、シェイクスピアの
後輩格に当たる劇作家、ベン・ジョンソンが痛烈に皮肉っているため、
そのような事実があったらしいと知れる。すなわち、シーザーの台詞に
以下のような一文があったというのだ。
"Caesar did never wrong but just cause"
現代英語の知識でも充分に読み溶けるが、語順まで残して直訳すれば
「シーザーは絶対に不当なことはせぬ。正当な理由がない限りは」と
なる。すなわち、正当な理由があれば他人を不当に遇しかねないとい
う事になる。そもそも不当に遇するに正当な理由ありというのも、論
理的におかしな話だ。シェイクスピアを尊敬しつつも目の敵にしてい
たジョンソンに誇張がなければの話だが、ジョンソンはシェイクスピ
アがしばしばこうした誤りを犯したと述べている。

(4) 種本となった作品
 プルターク(プルタルコス)の『対比列伝』に全面的に依拠している。
当時既にギリシャ語『列伝』はフランス語に、そして英語にも訳されてお
り、シェイクスピアはそれを読んだと考えられる。新潮文庫『ジュリアス・
シーザー』解題には河野与一氏訳『プルターク英雄伝(全十二冊 岩波文
庫)』が、シェイクスピアの戯曲に書かれた場面の順序を追うように編集
した上で収録されているので、両者を対比しやすい。
 私見としていくつか相違点を挙げると、

(1)『対比列伝』ではブルートゥスに理を重んじるあまり周囲が見えな
   いようなところは感ぜられず、むしろギリシアの哲人的な、実際の
   行動の場にあっても冷静を失わぬ好人物として書かれている。
(2)『対比列伝』ではキャシアスの性格も単純なもので、シェイクスピ
   アに見られるような、一方ではブルートゥスを操るつもりになって
   いながら、しばしば心の底から信頼し合う友に変じてしまうという
   分裂は感じられない。
(3)『対比列伝』のシーザーには、シェイクスピアが与えた弱さは感じられない。
(4)『対比列伝』は事件がポンペイウス像の目前で起きたが故に、シー
   ザーの死を神の采配に帰している。
(5)『対比列伝』におけるシーザー暗殺者に対する民衆の支持は、シェ
   イクスピアのそれほどはっきりしてはいない。
(6)『対比列伝』ではアントーニアスの放埒ぶりが一度ならずはっきり
   言及されるが、シェイクスピアではほのめかされる程度に留まっている。

 これらが生ずる効果をいちいち指摘はしない。次項目で追求する。

(5) 雰囲気・テーマ・思想
 まず本作のテーマが「独裁に対する抵抗」ではないという点を強調して
おきたい。王による独裁が正に正当化されていた絶対王政期のイギリスで、
王権に取り入ることを怠らなかったシェイクスピアが独裁に対する反抗を
描くとは思えない。そもそも彼の作品を一通り読んでも、反権力志向など
全く感じられない。もっともエリザベス女王は議会との対決を避けたし、
エリザベス女王に関する伝説の数々を見ると、当時の英国人がエリザベス
女王の決定を自分達の欲求をよく酌んだものと感じていた可能性も否定で
きない。すると当時の英国人は大陸の絶対主義と対比し、自国の体制を共
和政に近いものと感じていた可能性は否定できない。しかしそれでもシェ
イクスピアが政治体制を云々する作品を他に残しておらず、おおく政治体
制や組織よりは個々人の個性にスポットを当てた史劇の書き方からしても、
シェイクスピアが「独裁に対する抵抗」などという主題を扱うのは不自然
であると言えよう。彼はリチャード三世以来、常に人間と運命をテーマに
してきた人なのだ。ここから問題はブルートゥスの行為がいかに高潔であっ
たかではなく、テーマは別にあると見当がつこう。既に「概観」の項で示
したとおり、それは恐らく大衆に対する不信と個々の人間に対する疑念の
二つで構成されている。

 本作に見られる人間への絶望は深い。ハムレット・マクベス・リア王に
は最後に夜明けに射す金色の朝日のごとく、秩序回復を予感させる存在が
ある(オセローでは強いていえばキャシオーの軍司令官就任がそれに当た
ろうが、もともとオセローが秩序の維持者・政治的支配者でないことから、
あまりこの感はない)が、本作ではそのような感覚を抱かせ得る人物像が、
最後はおろか全編を通して存在しない。一人一人見ていくが、まずシーザー
は言うまでもなく危険を知らせる全ての予兆を「いかなるときにも、おれは
シーザーだからな」と己の勇気を誇示するばかりで、活かすことができな
かった。そして何より、王冠を欲しがりながら王冠を拒否する芝居でロー
マ市民の人気を取り、しかし演じきれずにキャシスに王冠への未練を見抜
かれてしまい、しかも王ならざる者の像に対する処置としては適当な二人
の護民官の行動、すなわちフレイヴィアス、マララスがシーザー像に掛け
られた飾りと冠をはぎ取った事に対し、地位を奪うという挙に出る。(はっ
きり書かれはしないが、彼が自分の権勢を頼みにローマの立法を踏みにじっ
たことは明白である)多くの矛盾と弱さを抱えた人物造形である。
 次はキャシアスら、ブルートゥスと共に暗殺を実行した者達だが、キャ
シアスは典型的な煽動者であり、他の者はキャシアスの言葉を聞いた途端、
同じトーンの言葉をオウム返しにして自分の精神を高揚させる類の小物に
過ぎない。ブルートゥスのように確固たる正義への確信がない彼等は、し
ばしばちぐはぐな台詞を吐く。
 ブルートゥスは欺瞞など無い高潔の士と考えられることもあるが、彼に
大きな欠点があることは誰の目にも明らかであろう。彼はアントーニアス
を殺害するか否か、彼に演説を許すか否かで、キャシアスの正しい省察力
を共有できない。彼は高潔たらんとするが、「高潔な志を示せば民衆は納
得する」など、自分が高潔であるかどうかに囚われて他者とのコミュニケー
ションを怠り、それによって失敗を繰り返す。彼の態度は硬直した教条主義
のような一面をも見せ、意志・名声・地位の上から共和政を守り得る位置に
いたにも関わらず、己の無能によって共和政崩壊に消極的貢献を果たすので
ある。
 最後にアントーニアス、オクテーヴィアスらだが、彼らの欺瞞は事後処理
の項で明らかに示される。もう一人の執政官レピダスと共に、彼らは誰を処
罰するかに際して自分の血縁を処罰することに不快感を示し、相手の血縁も
処罰することを条件にそれを呑むのである。何の私情もはさまず処罰を決す
るか、あるいはいっそのこと聞き分けもなく自分の血縁を守ろうとする方が、
間違いなく純粋な印象を与えるだろう。ここで彼らは政治家である。また
三人でシーザーの遺言を手に入れ、何とかしてローマ市民への遺産分配を
減らそうとするくだりなどは、アントーニアス自身の大衆煽動演説との落
差にいささか慄然とさせられる。

 またローマ市民の描き方には、大衆への深刻な懐疑が示されている。本作
ではシーザー凱旋、アントーニアスの演説という二つの場面で彼らの心変わ
りがデフォルメされ、馬鹿馬鹿しいほど簡単に支持者を変える様が描かれて
いるが、これはやはりシェイクスピアが当時抱いていた感覚を示すものと
とって良いであろう。(これをデフォルメとして意識していたか、はた民衆
とは正にこのようなものだと思い詰めていたかは不明だが。)そうでなけれ
ば、わざわざ劇の進行と関係のない詩人シナ虐殺をシェイクスピアが残すわ
けがない。たとえプルタークの『対比列伝』にそのシーンが書かれていても、
『ロミオとジュリエット』を九ヶ月から一週間に縮めたのと同じ大胆さで
削除したであろう。

 ここでこの劇の主題とも絡むこととして、この劇の主人公について考えて
おく。そもそも本作には「主人公は誰なのか、何が悲しむべき事なのか」と
いう疑問が存在し、福田氏は奈辺について新潮文庫『ジュリアス・シーザー』
解題において言及しているので引用する。

 一体、この劇の主人公は誰か。作品の題名にも関わらず、明らかにシーザー
ではない。では、ブルートゥスか。私達は誰に同情すればよいのか。誰の悲劇
なのか。シェストフはブルートゥスを主人公と見、彼の理想主義が破れてゆく
過程にシェイクスピアの深刻な懐疑を想像している。ウィルソンもこの劇には
『ハムレット』や『リア王』のような「主人公」はいない、危機にあるのは、
そういう個人の心ではなく、「ローマの未来」だと言いながら、やはりブルー
トゥスに最も同情的である。暗殺者の中で「ただこの男だけだ、純粋な正義の
精神にかられ、万民の公益を願って一味に加ったのは」というアントニーの言
葉をそのまま信じている。彼はルネサンス期イタリーの共和政論者や芸術家が
多くブルートゥスを聖者として崇めていたことを指摘し、「ルネサンス期特有
の感情はシーザーにたいする渇仰と暗殺者にたいする渇仰が一つになっていた
ことであった」というブルクハルトの言を否定する。が、おそらくブルクハル
トの言うとおりであったろう。ルネサンスに限らない。いつの時代でも、その
二つは一つになりやすい。

 ブルートゥスを聖化してこの劇の主人公とする説は多い。確かにブルートゥ
ス以外に、その候補はあるまい。しかしブルートゥスが弱いのは、観客が持つ
ブルートゥスの内面に対する視点を、彼は自己省察の形で共有しようとしない
のである。このすれ違いは決定的である。相手に相手の気付かぬ欠点を見出し
ているとき、その相手との間に如何なる一体感も存在し得ない。ブルートゥス
に彼自身が見出せない問題を我々が見出すならば、彼は我々が感情移入するべ
き主人公とはなりづらい。(すなわち、彼の硬直を共有する者ないしかつて
共有した者は彼を主人公と感じられるかも知れない)
 福田氏は結局主人公を彼こそはと示さないが、おそらくそれで良いのであ
ろう。ブルートゥスが主人公でなければ、他に悲劇の主人公候補はいない。
ただし「ローマの未来」というのは抽象に逃避する詭弁ではないか。危機に
瀕するローマの未来こそがテーマだとすれば、当時シェイクスピアの目下の
興味は、ある素晴らしき社会の維持であったという事になる。先述の通り、
そのような主題設定はシェイクスピアの作品史に嵌め込めば、あまりに奇形
的である。また別な見方をすれば、ローマの未来が危機に瀕しているのは、
それを担うべき個々人の人格が問題を孕んでいるからであろう。「ローマの
未来が主題だ」ということは、「複数の登場人物達の人格が孕む問題が主題
だ」ということと変わらない。おそらくウィルソンはこの意味で言ったので
あり、「ローマの未来」などという分かりづらい言葉を思わず用いたのは、
主題がエキストラにまで及ぶ複数の人物によって分散して担われている事へ
の戸惑いからだろう。あるいは「ローマの未来」という言葉の方が「複数の
登場人物達の人格が孕む問題」などと言うよりは文学的に響きが良いのは
確かで、なにもウィルソンの言い方に目くじらをたてる必要はないかも知
れない。

 まずはこの作品において、全ての登場人物が問題を抱えていることに注意
したい。そしてシーザーは己の自信過剰、否、恐らくは自信過剰にならなけ
れば現在の地位に耐えられない弱さが原因で虐殺され、ブルートゥスは他者
を理解できぬ己の硬直のために敗北した。自己の性格が外界と相互に作用し、
暗い運命を形成するのだ。大衆や扇動家は、ここでは外界の一部となっている。