II. 作品詳説

※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。

14. 『空騒ぎ』

(1) 概観
 ヒーロー・クローディオーの愛がドン・ジョンの陰謀で狂いかけ
るが、少々ピントのぼけた警保官の偶然の「活躍」で陰謀が暴かれ、
二人は結ばれるという主筋と、結婚などしないと言い毒舌合戦を繰
り広げていたベネディック・ベアトリスが、周囲の計画で互いに惹
かれ合うようになり、ついには結ばれるという副筋、そして茶番劇
風の警保官達の夜警や取り調べの場面、三つの色彩の異なる場面に
よって構成されている。ただしヒーロー・クローディスの間の「空
騒ぎ」は見せ場というほどの事も起きず、その点ではむしろベネ
ディック・ベアトリスの方が主筋と言ってもよかろうかとも思われる。

(2) 作劇年代
 本作品は作者生前の1600年に第一四折本が登録されており、完成
はそれ以前ということになる。また当時のケンブリッジ出身の学者に
フランシス・ミアーズなる人物がおり、その著書の付録に1598年ま
でのシェイクスピア作品を列挙したものがあり(『じゃじゃ馬ならし』
が『恋の骨折甲斐(原語表記は不明)』となっている他は正確に全作
品を網羅しているという)、シェイクスピア作品の製作年代推定に役
立っている。本作はその中に含まれないため、結論は1598年〜1599
年、あるいは1600年春頃かということになる。
 ちなみにミアーズの著書の付録は英国の詩人をギリシャ・ローマ・
イタリアの詩人と比較した文が中心で、シェイクスピアは悲喜劇とも
当代随一と称しており、当時の評判が窺われる。

(3) 出版事情・定本
 古刊本は生前の第一四折本と死後の第一二折本のみで、かつ第一
四折本がシェイクスピアの原稿から起こした善本であり、シェイク
スピアの劇団で後見用台本として手を加えられつつも台本自体はそ
のまま伝わり、それを原本に、修正というほどの修正も受けずに第
一二折本が出版された。すなわち第一四折本が依るべき原本と考え
て問題ない。
 ただし、ドーバー・ウィルソンによれば本作の場合は出版前の原
稿が既に書き換えを経ている可能性が高いという。それは恐らく
シェイクスピア自らのものであって他の作品でも見られることなの
だが、それを福田恆存氏がわざわざ指摘するのは、本作品では書き
換えの結果、見逃しがたい欠陥を生んでしまっていると考えたから
であろう。特にヒーロー・クローディオーの結婚に際して、ドン・
ジョンが別人を使ってヒーローの不義の場面を演じさせ、ヒーロー
を陥れようとする、いわば見せ場が舞台裏で済まされてしまえば、
観客はいきなり始まる結婚式に少々戸惑うであろう。他には何も知
らずに陰謀の片棒を担がされたと思われる小間使いのマーガレット
が、事件が大事になっても己のした事との関係に気付かぬかのよう
であり、これも観客に悪事露見の期待を抱かせてしまえば、舞台と
観客の間に溝が生じてしまう。また福田氏は過去一年ベアトリスと
おなじ部屋で寝起きしてきたヒーローが式前日だけ別に寝たとある
が、ではヒーローがどこに寝たのかが不明だという。しかしそれ以
前に、結婚前夜の花嫁がどこに寝ているかも知らないというのは、
随分ずぼらな家族ではないか。いずれにせよ、観客はベアトリスの
意外な証言に気を取られて、芝居の筋から意識が離れてしまうだろ
う。(福田氏はもう一つ、陰謀が露見した後にヒーローの父レオ
ナートーがマーガレットを詰問すると言っておきながら、その内容
がはっきりしないと述べている。しかし氏の訳を読めば、全体が
はっきりするとは言いがたいものの、観客の興味は満たせようかと
思われる。あるいは氏が和訳の段階で詰問内容も分かりやすいよう
に訳出したものか)
 以上の点からシェイクスピアは本作が一旦完成した後に、かなり
無理な加筆・削除を行ったのではないかという推測が成り立つ。
ウィルソンはこれを、始めはヒーロー・クローディオー物語を主筋
として戯曲を書いたものの、ベネディック・ベアトリスの副筋の方
に興味をそそられ、後からそちらを増補したものならんと想像をめ
ぐらせている。

(4) 種本となった作品
 ヒーロー・クローディオーの主筋、ベネディック・ベアトリスの
副筋、ドグベリーらの茶番劇、それぞれに種本が指摘されている。
しかし、これの追求がシェイクスピアの精神の軌跡を追うための手
掛かりを与えてくれるかとなると、いささか疑問である。少々煩雑
なこともあって、資料はあるが省略する。

(5) 雰囲気・テーマ・思想
 喜劇時代の作品ではあるが、アラゴン領主ドン・ペドローに対す
る腹違いの弟ドン・ジョンの裏切りがあるなど、いささか影が差し
ている。雰囲気に幻想的なところはあまり無く、笑劇風喜劇の最後
の作品となった。

 ひとつひとつの人物を見ていくと、ドン・ペドローとドン・ジョ
ンはシェイクスピアに度々繰り返される、兄弟による裏切り・簒奪
のイメージがある。またドン・ジョンの陰謀の動機はヒーローへの
横恋慕ということになっているが、しかしヒーローを奪うのではな
く貶めてしまう点は動機がはっきりしない印象を与えるし、陰謀の
実行後に発覚を恐れて逃亡してしまう点は、陰謀が成功したあとど
うするかについての見通しが甘く、『オセロー』の悪漢イアーゴー
を思いださせる。彼もまた動機なき悪党であり、また計画が甘く妻
に陰謀を暴かれてしまう人物であった。これはシェイクスピアが一
人の罪人の真実を描き出そうとしたのではなく、あくまで彼等は劇
の中の一機能として描かれたに過ぎないからではないか。
 ヒーロー・クローディオーにはさほど特記すべき人物像は見出せ
ない。一方のベネディック・ベアトリスは『じゃじゃ馬ならし』の
後身のように見えるが、今回は女がやや優勢の体である。『じゃじゃ
馬ならし』にあった茶番劇的な破天荒さは影を潜め、「本人達は仲
の悪いつもりでも、はたから見れば良い取り合わせ」という典型を
踏襲していて、安心して見ていられる。警保官達は夜警の出鱈目な
方針もさることながら、『ロミオとジュリエット』に登場するジュ
リエットの乳母にも見られる「言い間違いによるおかしみ」を雨霰
のごとく観客席にふりまき、しつこく繰り返してみせて観客を笑い
の渦に巻き込む。

 ところで、福田恆存氏が解題で論じた以下の点については考えて
おきたい。

 (略)……『空騒ぎ』という作品は、もし現代の作家が採上げた
ら、恐らく意地の悪い諷刺劇になりかねぬ皮肉な作品である。登場
人物に対する作者の態度が、いささか現代的であり、批評的なのだ。
殊に主人公のベネディックとベアトリスに関してであるが、この作
品は「自己欺瞞の喜劇」と呼ばれて来た。作者はこの二人に対して、
「お前達の女嫌い、男嫌いというのはみずからを欺くものだぞ」と
言っているように思われるからであろう。が、それはもう一歩進め
れば、といって、作者がそこまで意識していたと言うのではないが、
二人が自己欺瞞を捨てて手を取合った時、「それもまた別の自己欺
瞞ではないか」という声がどこかから響いて来るような気がしない
でもないという事だ。その声は劇場では聞えない。が、芝居がはね
て、レストランで今観て来たばかりの「自己欺瞞の喜劇」について
話合っているうち、誰かの口からそういう批評が出て来そうなとこ
ろがある。
 それは男も女も同じ段取りで型通りに改宗させられてしまうから
であって、それというのも喜劇、あるいは笑劇の型をそのまま踏襲
しているからであるが、その点が今日では妙に人間を木偶扱いにし
ているような皮肉な感じを与えるのであろう。……(略)

 確かに『じゃじゃ馬ならし』のカタリーナや本作のベネディクト・
ベアトリスの書き方は、実は愛するということを知っていながら、
それを拒否しているといったものである。しかし、それに「自己欺
瞞」という日本語を充てるのはどうか。もともと英語圏で言い出さ
れたことであれば原語は相応しい単語を充てているのかも知れない
が、少なくとも日本語の「自己欺瞞」という単語には非難の響きが
含まれており、ここには相応しくないように思われる。誰よりもま
ず自分に対して恋心を隠したり、相手が自分を恋いこがれていると
聞いた途端に自分の方がかえって恋心を抱いてしまうというといっ
た事は、もの慣れぬ若者にはよくある微笑ましい話ではないか。い
まさら「自己欺瞞」などという激しい言葉で確認することかと、い
ささか疑問が残る。
 しかし、人間を木偶扱いにしているような部分は確かにある。そ
れはこの作品のみならず、あらゆる作品にあるのではないだろうか。
シェイクスピアは己が観察した人間の諸相を分析し、理論化し、劇
中に理論に沿って計画的に人物を再構成しているような所がある。
これは次章で重要な論点となるので、ここで注意を喚起しておきた
い。