II. 作品詳説

※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。

13. 『ヘンリー4世』

『ヘンリー四世』
(1) 概観
 イギリス史に題を採った史劇の一つ。『リチャード二世』において
リチャードから王冠を奪った従弟ボリングブルックことランカスター
家のヘンリー四世だったが、王子のハルが街の無頼漢どもと放蕩して
いる。ところが薔薇戦争が火を吹き、いよいよ風雲急を告げるとなる
と、ハルは隠していた頭角を現し、荒武者ホットスパーを一騎打ちに
倒すという武者ぶりを見せ、約束された王位をその手に掴む。
 シェイクスピアの生み出した人物中随一の名声をとるハル王子の遊
び仲間、フォールスタフが登場する作品であるが、なぜか新潮文庫の
選集には選ばれていない。長編でもあり、話全体としては全集に入っ
ていれば充分で文庫にするべきものではないのかも知れないが、遺憾
である。

(2) 作劇年代
 1597年頃。

(4) 種本となった作品
 ホリンシェッド『年代記』など。

(5) 雰囲気・テーマ・思想
 『ロミオとジュリエット』以降『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』
と続いたロマン喜劇とは雰囲気を異にする、比較的写実的な面の強い
喜劇である。
 本作の魅力は何といっても前半におけるフォールスタフの留まると
ころを知らぬ破天荒な活躍と、後半におけるその退行の中で、転じて
ハルを風刺するその鋭さにあるといえよう。彼の人気はある人の調査
によれば、ハムレットを超えてエリザベス朝でもっとも好まれたほど
であるという。(中村保男氏著 新潮文庫『ヴェニスの商人』解説よ
り。いかなる調査を行ったのかは記されていない)

 彼の魅力については岡村俊明氏が著書『シェイクスピアを読む』に
おいて書いているので、そちらを参考にしたい。フォールスタフは超
肥満体の初老に達した人物だが、これらが純然たる笑いの対象となっ
て、決してみじめな印象を与えない。その原因は彼の厚顔無恥にあろ
う。彼は己のたてた「悪徳から足を洗う」という誓いを一瞬のあとに
破って恥じず、戦場でホットスパーとはち合わせになれば死んだふり
でやり過ごし、しかも勇気の最上の部分は分別とかなんとか平気で言
い、自分の罪を暴きに役人が来れば壁掛けの陰に隠れておきながら大
いびきをかいて眠りこみ、果ては戦場の緊張の中で拳銃を要求されて、
「町を一つぶっこわすものだからな」と称してホルスターに入った
サック酒(sackには「町を破壊する」の意あり)をよこしたりと、
まったく感じていないという体だ。そもそも肥満と老齢にしても、
時に「俺たち若者」などと若者気取りになってみたり、「伏せるのは
いいが、あとで起こしてくれる梃子でも持っているとでもいうのか」
と自ら笑いの種にしてしまったり、誰もが口元を引き締める王位争奪
の緊張の中で、その天衣無縫ぶりは留まるところを知らない。しかし
第二部にはいるとその影が薄れ始めるよう計算されていると岡村氏は
いう。他の人物の別な種類の笑いが自己主張を開始し、国家レベルで
の謀略が虚偽の醜さを強調しだし、フォールスタフ自身の言動にも陰
りが見え始める。そしてもっとも強く印象に残るのは、ハルの即位式
を待ちに待って駆け寄ったフォールスタフに浴びせられる「知らぬな、
お前など」という単純簡潔ながら極めて激しい拒絶の言葉であろう。
 シェイクスピアがこれらを計画的に描いている以上、そこにシェイ
クスピアの意図を読みとりうる。シェイクスピアはここでフォールス
タフを沈降させることで、何かを書こうとしたのだ。変わらぬフォー
ルスタフを拒否するのがヘンリー王に変わったハルであり、またフォー
ルスタフの言動がハルへの風刺になってくる事からしても、書こうと
したものがハルの変化であることは間違いない。しかしこの変化は難
しい。ある面では愛すべきフォールスタフを裏切ったものとして否定
的に見うるが、一方で放蕩者として王子失格であったハルは、この変
化で勇敢な名王に生まれ変わったのだ。父のヘンリー四世や真面目な
廷臣達にとっては、喜ばしい限りであろう。またこうでなければ、時
代はもっと混乱する。さらにフォールスタフの言動は、どんなに邪気
がなく笑いを提供してくれたとしても、やはり悪徳であることに変わ
りはないのだ。最後には解説者=道化の様相をも帯びるフォールスタ
フだが、さらに彼は悲劇の主人公でもある。

 本作の中には様々な両義性・変化・価値観などが複雑に絡み合って
おり、それぞれが負う人物像や義務のきしみ合いの中で、天衣無縫な
放蕩生活とその象徴であるフォールスタフは、歯車の間に巻き込まれ
て砕けひしがれてゆく。その運命が働き出す複雑緻密な構造も含めて、
本作中に悲劇時代に通じるものも読みとれるのではないだろうか。
シェイクスピアの個人史を追う上で興味深い作品である。