※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
12. 『ヴェニスの商人』
(1) 概観
喜劇時代に属する、シェイクスピア作品の中でも知名度の高い作
品の一つ。型どおりの物語は安心して何度も楽しめ、かつ劇として
の順序構成の妙は、他の作品でもお馴染みのシェイクスピアの才能
が披露されている。他の婚約者が失敗するなかバサーニオーが鉛の
箱を選び取るシーン、人肉裁判とシャイロックの急転直下の没落、
ポーシャの居館での美しい終幕など見せ場も豊富である。なおこの
物語を論ずるなら、シャイロックを避けて通ることは出来まい。彼
こそは主人公を抜いてもっとも有名な登場人物であり、話の展開に
乗っていれば見せ場を演じきれるポーシャなどと違い、実力勝負と
いう面の強いこのキャラクターは、相当に力のある役者でなければ
演じきれない役であり、また実力があれば、それを示せる役である。
これはある種の伝説だが、初演の際にはハムレット他多くのシェイ
クスピア作品で主役を演じた侍従長劇団筆頭役者、リチャード・
バーベッジが演じたとも言われる。
(2) 作劇年代
本作は初演の明確な記録がないが、1598年に作品登録がなされて
いるので、製作年代が1598年以前であるということは疑いの余地が
ない。問題はそこからどれ程遡るかという事だが、文体等からさほど
古いものとは考えられず、やはり『ロミオとジュリエット』が書かれ
た1595年頃よりは後、喜劇時代の作と考えるべきだろう。一方1599
年に悲劇時代の頭を飾る『ジュリアス・シーザー』が書かれているこ
とから、それと作品の空気にあまりに隔たりのある本作は、『ジュリ
アス・シーザー』製作年代から離れている方が自然であるとも言える。
そこで喜劇時代の作品の制作年代だが、95年〜96年には『リチャード
二世』や『夏の夜の夢』の製作があり、97年〜98年には『ヘンリー四
世』二部作、98年〜99年には『空騒ぎ』『ヘンリー五世』などが書か
れている。うち『ヘンリー四世』や『空騒ぎ』は既に悲劇時代につなが
る暗さの胤を孕んでおり、本作がこれらの後に書かれるとは考えがたい。
こうした資料調査によって、ちょうど作品製作に間隙のある1596〜
1597年の間に書かれたと考えるのが妥当であろうと福田恆存氏は新潮
文庫『ヴェニスの商人』解題で述べている。ただし本作中に当時の時事
事件を受けて書かれたと見られる数行があり、それが事件後すぐに作品
中に描かれたとすれば、もう少し前から何度かに渡って材料に手を加え
たものとも考えられる。
(3) 出版事情・定本
本作の古刊本の事情は『夏の夜の夢』と同様、善本の第一四折本と
作者死後ジャガードの手で編まれた海賊版の第二四折本、そして第一
二折本の三冊の古刊本が存在し、うち「トマス・ヘイジ上梓」と銘打っ
た第一四折本がもっとも信頼できる底本と言うことになる。
(4) 種本となった作品
本作中には一つの作品を細部に関して書き直した際に生じるケアレス
ミスと思われるものが散見されるので、ほぼ同内容の作品をベースに、
シェイクスピア流の喜劇に仕上げたものではないかといわれる。しかし
「これぞ直接の種本」というべきものは、未だ発見されていない。ス
ティーブン・ゴッソンなる人物が1597年に書いた『悪口学校』なる
作品(恐らく批評集ないし随筆の類)に『ユダヤ人』なる戯曲を槍玉
に挙げて演劇の道徳的退廃を嘆いた章があるそうだが、その戯曲の筋
は1378年に書かれ1558年に刊行された物語集『イル・ペコローネ
(阿呆の意)』の要素を持っているらしい。『イル・ペコローネ』は
本作の重要な種本の一つではないかと考えられているが、両者の間に
『ユダヤ人』が挟まるのかも知れない。またヘンズローの日記を見る
と、1594年に『ヴェニスの喜劇』なる作品が上演されたという記述
があり、これがシェイクスピアの種本ではないかとの想像もある。
次いで個々のイメージだが、まず福田恆存氏は本作の筋を(1)箱
選びによる婿取り(2)妻にもらった指輪の紛失と再発見(3)人肉
裁判(4)ジェシカの駆落ち の四項目に分ける。このうち(2)(3)
は『イル・ペコローネ』に非常によく似た形で描かれており、また(1)
に関しても、箱のイメージはないが、求婚に難題が課される点ではよく
似ている。以下に福田氏が抄訳したこの作品を引用する。
ヴェニスの青年、ジャンネットーは名附親にして養父のアンサルドー
から金を借りて、アレクサンドリア相手に貿易を始めたが、……(略)
……不思議な話を聞いた。その港町は一人の美女によって支配されてい
る。女は夫の死後、法律をつくり、この町に立寄った男はすべて自分の
夜伽をしなければならぬという命令を出した。条件は、この間、自分を
十分に楽しませてくれた男には、自分もろともこの町の富を与えるが、
もしそれが出来ねば、相手の船荷を没収し、町を出て行かねばならない
というのである。ジャンネットーは意を決して挑み、二度とも眠りこけ
て失敗するが、三度目の航海でついに成功する。……(略)……寝酒に
麻酔薬がはいっていることを、あらかじめ教えられていたからである。
しかし……(略)……三度目の航海のために、名附親のアンサルドー
が整えてやった一万ダカットの金はユダヤ人から借りたもので、もし約
束の日までに返済できぬときは、アンサルドーの体のどこからでも任意
に一ポンドの肉を切取っていいという酷い条件がついていた。……(略)
……ジャンネットーは名附親の好意とその身に迫る危難をすっかり忘れ
ていたが、約束の返済日当日、ふとしたことからそれを思いだし、悔恨
にとらわれる。
新妻は夫から話を聞いて、すぐに一万ダカットを手渡し、それを持っ
てすぐにヴェニスに駆けつけるようにと頼む。……(略)……ユダヤ人
には一滴の慈悲もない……(略)……ヴェニス中の金を全部くれると言
われても、このクリスト教徒の肉一ポンドには代えられないと言いはる。
が、……(略)……たまたまヴェニスのある宿にボローニャの若き法
学博士が到着する。もちろん、変装したジャンネットーの新妻である。
女は……(略)……ある手だてを講じて、その場へ原告と被告を呼び寄
せる。あとは『ヴェニスの商人』と同様、事件は急転廻してユダヤ人は
奈落の底に突き落とされるのである。
(略)……女は弁護料は要らぬと断ったあとで、ふと相手の指輪に目
をつけ、それを記念にもらいたいと言う。ジャンネットーはさすがに渋
るが、ついに言いなりになってしまう。それから「釈明」の場になる。
……(略)
主人公に金を工面してやる人物と主人公の関係や登場時の女性の印象
などがかなり異なるが、相似点もかなり多く、直接にせよ間接にせよ、
あるいは同源の他の作品の影響を受けるにせよ、なにか関係の存在を想
像させる。ただしこの作品自体が英訳されるのは1897年のことになる
ので、もしこの作品をシェイクスピアが直接読んでいたとするならば、
イタリア語で読んでいたということになる。
ところで上記の相違点だが、どちらもシェイクスピアの設定よりは自
然と思われる。アントーニオーがなぜ乱費の末に破産寸前に陥るような
男であるバサーニオーの面倒をそんなに見てやるのか、「親友である」
という以上の説明はないし、始めはバサーニオーが来るまで箱選びの運
命に縛られていた人が、突然男装で法廷に乗り込む行動力を身につける
のも奇異な印象を与える。この点だが、もしアントーニオーやポーシャ
の人物像がシェイクスピアの独創によるものであるなら、ここにも何ら
かの工夫を見出しうるであろう。アントーニオーに関して言えば、本作
冒頭のいささかメランコリーを抱えた彼の人物像が目に付く。そういえ
ば、シャイロックを前に死を覚悟する様もいささか乾いた印象を与える。
これはハムレットのメランコリーや第五幕第二場の「(略)……来るべ
きものは、いま来なくとも、いずれは来る──いま来れば、あとには来
ない──あとに来なければ、いま来るだけのこと……(略)」というセ
リフなどを思いださせるが、ここにハムレットの原型があるなどと言う
よりは、むしろシェイクスピアは喜劇時代以前からメランコリックな性
格を生み出すことを好んでおり、恐らくは彼自身もそのようなものと親
しい人の一人であったということであろう。
ポーシャに関しては、むしろ始めの印象がおとなしい少女のそれであ
ればあるほど、名裁判官の正体がポーシャであったことが大きな驚きと
なり、その後のシーンは幻想的なイメージが強まるであろう。また場面
が急転回する場で起きることでもあり、劇として上演すればこの性格の
変化はさほど目立たないということも考えられる。シェイクスピアの手
になるものか不明だが、劇として書き換える上で施す変更としては、巧
みなものといえるだろう。
次に(1)の箱選びのくだりだが、やはりイタリアの『ジェスタ・ロ
マノーラム(ローマ人行状記)』に、本作とよく似た銘を刻んだ金・銀・
銅の箱が登場する。(ただしローマ皇帝が嗣子の妻を決めるためのもの)
この物語集は英訳され、1577年には初版、1595年には改訂版が出版さ
れていたので、シェイクスピアも手に取ることが出来たであろう。
最後に(4)ジェシカとの駆け落ち の問題になるが、これはクリス
トファー・マーロウが書いた悲劇『モルタ島のユダヤ人』の影響を受け
ていないという事は有り得ないであろう。またロバート・ウィルソン
(1600年没)作の幕間劇『ロンドンの三婦人』に登場するユダヤ人も
シャイロック創造の一助となったのではないかとも言われる。
ただしこうした物語は、出版物として残っていなくとも人口に膾炙し、
誰もが知っている物語であったかも知れない。そうだとすればシェイク
スピアは出版物の形で種本など持っていなくとも、いつの間にか種だけ
は仕入れているという事になろう。
(5) 雰囲気・テーマ・思想
この作品を観賞・批評するにせよ、演出・上演するにせよ、問題はシャ
イロックをどう描くかである。シャイロックは笑われるべき喜劇の主人公
なのか、それともユダヤ人であるが故に迫害され、理不尽な裁判で破滅を
強いられる悲劇の主人公なのか。
福田恆存氏およびアーサー・クイラ=クーチは、シャイロックは飽くま
で喜劇の脇役であると主張しており、私もこれに賛成である。シェイクス
ピアがユダヤ人シャイロックに複雑な性格を刻み込み、彼を主人公とした
ということは、シェイクスピアは彼の代弁者としてユダヤ人を選んだので
あり、シェイクスピアはユダヤ人を己の分身と見て一体化していると言う
ことになる。しかし当時のイギリス社会に通用したユダヤ人観は我々の想
像し難いものであり、かつ当時のイギリスはユダヤ人の入国を禁じていた
ため、シェイクスピアもユダヤ人なるものをまともに見たことはないと言
う。(活発な国際貿易に必要不可欠な金融の業はオランダなどのユダヤ人
が行ったものであろうか)シェイクスピアが特に世間の常識を抜け出して
まで人種差別の不条理を見抜いていたという話もないし、シェイクスピア
と同時代、あるいは後の十七、十八世紀の思索家やヒューマニストの著作
を振り返ってみても、シェイクスピアのみがユダヤ人を平等に取り扱って
いたとの主張は説得力に欠く。クイラ=クーチの主張の根拠は当時のイギ
リスでの反ユダヤ感情がいかに激しかったかという点で、また福田恆存氏
はシャイロックが劇の役割上、あくまで脇役しか与えられておらず、彼に
悲劇の主人公を見ることには無理があると述べている。
福田氏のシャイロック解釈とも関係することだが、この劇を喜劇として
みるならば、影のない美しい喜劇である。アントーニオーの冒頭でのセリ
フには陰影が無くもないが、それは一切掘り下げられることなく終わるの
であり、劇全体の雰囲気を支配するものではない。無論バサーニオーや
ポーシャに問題含みの性格などない(というより、性格描写に乏しい。ロ
ミオとジュリエットにおけるロミオと大差ない木偶で、書いているうちに
作者の予期せぬ活躍をし出すなどということの有り得ぬ人物像である)わ
けで、箱の銘も『ロミオとジュリエット』の僧ロレンゾーとよく似て、結
構深いが説教臭い。シャイロックを陥れるものも、彼の性格や運命といっ
た面よりは、ポーシャの小手先三寸の頓知と詭弁という面が目立つ。しか
も裁判のシーンでは破滅するシャイロックを主題と見るには、あまりに
ポーシャの英雄的役所が目立ちすぎてしまう。総じてこの劇が悲劇であれ
ばシェイクスピアとは思えぬ失敗作であり、問題含みの喜劇であると見れ
ば掘り下げがいかにも足りぬ。『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』
に続く、美しいロマン劇と見るべきであろう。