II. 作品詳説

※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。

11. 『夏の夜の夢』

(1) 概観
 『ヴェローナの二紳士』とよく似た構造の恋のもつれが描かれる
第一筋、町の職人達が繰り広げる茶番劇風の第二筋、小妖精パック
と妖精の王オーベロン・妖精の女王タイターニアが繰り広げる幻想
的な第三筋、三つの筋がそれぞれ全く異なる雰囲気を持ちながら、
見事に縒り合わされて一つの豊穣な世界を形成している。シェイク
スピアが夢幻的な色彩を持つ喜劇を書いた最初の例であり、未だ悲
劇時代におけるような陰りのない美しい物語に仕上がっている。

(2) 作劇年代
 本作の製作年代推定には、劇中に言及される異常気象を英国で実
際に観測されたそれと同定し、まさにその年に製作されたとする説、
あるいは同じく劇中のキューピッドが処女星を射抜こうとして果た
せず云々という言及を、当時あった外国からエリザベス朝イギリス
への干渉の隠喩ではないかとする説などがある。しかしこれらの内
証に頼った年代推定は、まず本当にその同定・関連づけが正しいか
どうかが定かではなく、また同定・関連づけが正しかったからといっ
て、その事件の期日と劇が製作された期日が一致するとは限らない。
ドーバー・ウィルソンとともに『新シェイクスピア全集』を編纂し
たアーサー・クイラ=クーチはこれらの内証には懐疑的で、むしろ
本作が貴族の結婚式の余興に供せんとして製作されたものであろう
との想像から、この劇を捧げるに相応しい貴族の結婚式を特定して
作劇年代の参考とする方法をとっている。この劇が結婚式で演ずる
ために書かれたとする確たる証拠はないようだが、以下に福田恆存
氏による新潮文庫『夏の夜の夢・あらし』解題から、本作を結婚式
用台本と信ずべき理由を紹介した文を引用する。

 第一に、この劇に出てくる間狂言だが、それを職人達は明かに結
婚式のために計画し、稽古し、演じている。第二に、シーシアスに
よって語られる、最初の、そして最後のせりふからも、この作品が
結婚祝賀用台本であることはおのずと察せられる。第三に、第五幕
のこしらえでも解るように、上演の場所も当の貴族の邸の広間であっ
たろうと思われる。第四に、妖精達の役割だが、この作品ではそれ
がつねに結婚と結びつけられており、ことに最後の妖精の歌にその
ことがはっきり出ている。……(略)……エリザベス時代人にとっ
ても(中世同様)それ(妖精)は結婚を祝い守るものであったと同
時に、下手をすればいたずらをし、不吉な禍をもたらすものであり、
それゆえ、彼等は結婚に際して、妖精の善意を祈ったのである。な
お、結婚式用台本として、この作品は最初妖精の歌舞で終っていた
もので、のちに一般劇場用に転用する際、そこを省いて、シーシア
スのせりふの後にエピローグのパックを新たに登場させたのだと考
える人もある。

 仮に本作が結婚式用台本であるとすると、それは誰に捧げられた
物なのかが問題として浮上する。適当な時期に行われた、ある程度
シェイクスピアと関係のある貴族の結婚式となると、1590年のエ
セックス伯か1598年のサザンプトン伯の結婚式が候補となる。
ここに文体等の内証から導かれる大まかな年代推定を重ねると、
エセックス伯の1590年はいかにも早すぎるが、サザンプトン伯の
1598年はちと遅すぎると思われる節もある。クイラ・クーチはサ
ザンプトン伯の1598年近くに書かれたものと主張するが、学者間
に定説はなく、福田恆存氏はウィルソン説、すなわち文体・作詩上
の形式等の内証から本作が三回にわたって書かれたものと考え、第
一稿は1592年に、第二稿は94年に書かれ、第三稿すなわち現在の
『夏の夜の夢』は98年にサザンプトン伯結婚式を視野に入れた書き
変えを経て完成したとする説をもっとも妥当としている。

(3) 出版事情・定本
 本作は作者生前の1600年に第一四折本が出版されており、作者
死後の1619年に第二四折本が、さらにその後で第一二折本が出版
されている。このうち第一四折本は「トマス・ヘイズ上梓」とある
ことから『トマス四折本』とも言い、作者原稿から直接起こした
善本である。いっぽう第二四折本は『ジャガード四折本』と呼ばれ、
その内容は第一四折本の写しにすぎず、第一二折本はさらにその写
しとなるから、もっとも信頼できるのはトマスの第一四折本という
ことになる。ただし第二四折本は劇場での後見用台本として編まれ
たもので、それだけにト書きには興味深いものがあるとドーバー・
ウィルソンは語っているという。
 ちなみにジャガード四折本は、シェイクスピア死後3年目の
1619年にジェイムズ・ロバーツの跡を継いだばかりのアイザック・
ジャガードが、死んだ人気作家の全集を編めば売れると考えて編ん
だもので、その日付を偽って1600年にとったため、上梓も偽りで
ロバーツの手になるものとしてある。この全集なるものはその実まっ
たく全集になっておらず、内容ではシェイクスピアと全く関係のな
い文章が4割を占めている。よし本当にシェイクスピア作品だった
として、それはいわゆる海賊版の悪本か既に存在した版の再版にす
ぎず、当然誤植がまじる上に、古い誤植も見逃すことが多く、台本
を参照しない独断による手入れを行うなど編集姿勢が疑われる。

(4) 種本となった作品
 シェイクスピア作品は多くが種本を有するが、本作と『あらし』
の二作品に関しては種本というべきものが存在しない。個々の固有
名詞や、妖精のいたずらで人間の頭が驢馬のそれに変ずる等の断片
的な物語は起源を探れば探れるようだが、肝心の筋立てはシェイク
スピアの独創によるらしい。

(5) 雰囲気・テーマ・思想
 作品史上ではシェイクスピアの独擅場といわれる「ロマン喜劇」
なるものの始めであり、『ロミオとジュリエット』にも共通する美
しさを持っている。「森」という舞台は『お気に召すまま』と共通
する神秘的でロマンチックな舞台装置となっている。これは新潮文
庫『お気に召すまま』解題で福田恆存氏も指摘していることだが、
シェイクスピアの故郷ウォリックシャー地方を埋めるアーデンの森
のイメージに依っているのだろう。少なくとも狼が巣くう黒い森で
はない。射し込む光が薄緑の若葉を輝かせる、人の手の入った森の
イメージに基づいているのだ。この点は追求すればイギリスでの森
林破壊と自然改造の歴史に絡んで興味深いであろうが、ここでは立
ち入らない。
 ロミオとジュリエットでは物語を破局へと向かって猛スピードで
展開させる動因は、目に見えぬ「運命」であった。しかし本作品で
は、劇の進行役は妖精という形で可視化されている。劇の進行を支
配する存在が描かれる作品としては、ほかに『リチャード三世』の
マーガレット、『マクベス』の魔女達、『オセロー』のイアーゴー、
そして『あらし』のプロスペローらが思い浮かぶが、既に述べたと
おり、『リチャード三世』のマーガレットは人間らしい主観性と傲
慢さを残していて、物語の外から鳥瞰することが出来ずにいて、む
しろ不可視の支配者たる「運命」の代弁者にすぎない。『マクベス』
の三人の魔女とヘカティーは、確かにマクベスの狂乱の日々を外か
ら眺めおろして楽しんでいる物語の進行役的存在だが、彼等はマク
ベスに多くを語ろうとしないと同様、観客にも、そして作者自身に
対しても説明をする気は毛頭ない。彼等は彼等の目的を遂行するの
みで、観客には(そして作者にも)彼等と同化することは許されて
いないのだ。観客はマクベスに同化し、マクベスの思い通りに現れ
語ることをしない魔女達に、共に翻弄される。また、彼等も定まっ
た運命をマクベスに前もって告げることでマクベスに恐怖を与えた
のみで、やはり不可視の進行役たる「運命」の代弁者に過ぎぬとも
見える。『オセロー』のイアーゴーもまた、物語からの独立性が低
すぎる。終いには劇は彼の手を離れてしまうし、ここでもイアーゴー
が運命を握っていると言うよりは、オセローが持っていた(否、あ
らゆる人間が陥りかねない)性格の闇の部分が「運命」の使わした
悪鬼イアーゴーの手で引き出されたというイメージもある。常に指
摘されるように、イアーゴーには動機が欠けているのだ。何かより
大きな存在の道具であったような印象が強い。本作の妖精達と同じ
ように観客や作者が一体化でき、かつ物語からある程度距離をとっ
て物語全体を観察し得ており、しかも「運命」の操り人形ではなく、
それら自身が動機を持って主体的に劇を操って劇の秩序を司るよう
な存在は、『あらし』のプロスペローをおいて他にはいない。この
点については次章で論ずる。

『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオーや『ヴェニスの商人』の
ポーシャも劇の中で他の配役よりも広い視点を持つが、ペトルーキ
オーが支配するのはじゃじゃ馬カタリーナを含む主筋のみで、ビア
ンカをめぐる副筋は彼の手から離れている。またポーシャが支配す
るのも劇の一中心となる裁判と、それに続く情緒豊かな最終幕の情
景のみで、劇全体を支配する進行役とは言い難い。