※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
5. 『じゃじゃ馬ならし』
(1) 概観
習作時代に書かれた、イタリアの笑劇に近い種の喜劇。まず序劇
が二幕あり、その後劇中劇の形で『じゃじゃ馬ならし』が始まる。
しかし序劇の続きは第一幕第一場にあるきりで、それ以降はまった
く登場せず、故に上演の際にはその部分を省略することが多い。
『じゃじゃ馬ならし』本体はパデュアの富豪バプティスタの美しい
二人の娘、「じゃじゃ馬」の姉カタリーナと、優しく音楽と詩を愛
する妹ビアンカを巡って展開される求婚箪で、カタリーナをペト
ルーキオーが乗りこなさんとする主筋と、二人のパデュア人の求婚
を受けるビアンカをルーセンショーが策をめぐらしてものにする副
筋とが見事に絡み合って進行してゆく。
なにぶんカタリーナとペトルーキオーの言い合いが激しく、芸術
としてはただ騒がしいだけの代物になりかねない。またカタリーナ
が最終幕で延々と語る人の妻たるの心得は、フェミニズムの問題に
も抵触していささか難しい。しかしこの辺りのことについては、福
田恆存氏がクイラ=クーチの論を引用して説明しているので、孫引
きとなって好ましくないのではあるが、ここにそれを引用する。
この戯曲は怒号を呼び、事実、それを要求する箇所も多いので、
ペトルーキオー役者は訳の解らぬ叫声や饒舌に誘われがちである。
だが、この男には一種の思いやりとも言うべきものがあって、それ
が一貫して彼の狂騒の底を流れている。舞台ではそれが現れなけれ
ばならぬし、それを現してやりさえすれば、見物は必ず喜ぶ。……
(略)……(ペトルーキオーの言葉には)確かに抑制が働いており、
皮肉な言葉づかいのうちに、かえって情のこまかい優しさを感じさ
せる。すぐ解ることだが、彼は相手にありとあらゆる試練を課する
にもかかわらず、気位の高い女にとってはどんな暴行よりも心を傷
つける蔑みの言葉だけは一度も使っていないのである。ペトルーキ
オー役者がこの底を流れる思いやりにさえ留意するならば、まず失
敗はなく、必ず「公演」できる。
結婚式から延々と奇行を繰り返して精神的に参らせ、飲食物も睡
眠も与えず、身支度もろくに許さず、それでカタリーナがすっかり
従順になってめでたしめでたしというペトルーキオーのやり口は、
いささかニグレクトによる家庭内暴力やカルト団体による洗脳を思
いださせないでもないが、もともとカタリーナのじゃじゃ馬ぶりに
ついて何らの説明もなく、荒唐無稽な荒れぶりを見せているのだか
ら、この上洗脳の何のといっても見当違い甚だしいであろう。そう
いえばカタリーナについては、ビアンカの求婚者二名はおろか、そ
の父すら見放し気味であり、その中で例え皮肉として響こうともカ
タリーナを褒める言葉を口にするのはペトルーキオーのみなのだ。
最終幕で見せる世話女房ぶりがカタリーナの本性だとすれば、この
皮肉も本質を見抜いて認める言葉であったという事になろうか。
(2) 作劇年代
本作品に関しては福田恆存氏が作劇年代推定の過程をあまり説明
していない。ウィルソンは1592年〜1594年と推定している。しか
し以下に『Taming of a Shrew』なる作品をめぐる二つの説を紹介
しておいたが、ウィルソン説を斥けた福田氏の推論からすると、本
作執筆年代は1594年以降ということになりそうだが、その場合の
執筆年代推定を福田氏が行わないところを見ると、あるいは1592
年以降『Taming of a Shrew』執筆に参加しており、それも含めて
1594年までを本作の製作年代としたものか。これ以上の詮索には
独自の資料収集が必要となるので断念する。
(3) 出版事情・定本
本作は生前の四折本は存在せず、死後の第一二折本全集において
初めて出版された。ただし本作の原題は『Taming of the Shrew』
だが、別に「ペンブローク劇団により度々上演されたる」と銘打った
『Taming of a Shrew』すなわち原題の定冠詞 the を不定冠詞 a に
変えただけの、極めて紛らわしい題名の作者名の無い本が存在し、
1594年に登録・上梓されている。これを種本の一つと見る旧説の
多数意見と、悪しき第一四折本であるとする少数派の新説があると
新潮文庫版『じゃじゃ馬ならし』解題は記している。以下、同解題
をまとめる。
前者は不定冠詞の作を、恐らくはシェイクスピアが最も尊敬して
いた先輩作家クリストファー・マーローが数人の共作者とともに完
成したもので、シェイクスピアもその共作者の一人であったかも知
れないという。この意見を採れば、シェイクスピアは作品製作に参
加したにせよしないにせよ、その作品に触れていたであろうと考え
られ、不定冠詞は定冠詞の種本ということになる。
一方の後者は、シェイクスピアが本作を書き上げたのは1592年の
ことであり、それはシェイクスピアが1594年末に侍従長劇団所属に
なる前まで主に行動を共にしていたペンブローク伯劇団の依頼で書か
れたものであり、同劇団の浮沈の中で『Taming of a Shrew』と
いう悪しき四折本が生み出されたという。福田恆存氏はこの説に無理
があるとしながら、この説を採る少数者の一人、ドーバー・ウィルソ
ンの立論の大まかな経緯を紹介している。以下にそれを引用する。
「(略)……シェイクスピアは1592年以前に《定冠詞》の第一稿
を書きあげていた。依頼主のペンブローク伯劇団が、その夏の地方巡
業にそれを持って出かけるためである。シェイクスピアが侍従長劇団
所属になったのは一五九四年末以降のことで、当時は主としてペンブ
ローク伯劇団と行動を共にしていたらしい。ところが、この劇団はそ
の年から翌一五九三年にかけて経営不振に陥り、加うるに一五九三年
夏には、エリザベス女王在位中もっとも猛威をふるったと言われる
ペストが発生し、ロンドンの劇場は翌一五九四年春まですべて閉鎖
されるに至って、ついに破産状態に瀕したらしく、劇団所有の脚本
はもちろん、衣装まで売払わざるをえなくなったのである。そのな
かに《定冠詞》の『じゃじゃ馬ならし』も含まれていた。買いとっ
たのは侍従長劇団である。あるいは、侍従長劇団はペンブローク伯
劇団の競争相手であると同時に親劇団でもあったから、一五九二年
夏の地方巡業後、当然のこととしてその脚本を預かったのかもしれ
ない。
いずれにせよ、なお苦境のうちにあって、一五九三年の冬から翌
一五九四年の春にかけ、再び地方巡業に出かけなければならなかっ
たペンブローク伯劇団員の手もとには、『じゃじゃ馬ならし』はも
とより、その他の台本も全く無かったのである。方法は一つしかな
い。役者たちがそれぞれ自分の記憶を吐きだし、それを手がかりに
台本を作製することだ。そうして出来あがったのが《不定冠詞》の
『じゃじゃ馬ならし』だというわけである。さらに彼等は巡業から
もどって、それを印刷出版業者に売卻した。……(略)」
福田恆存氏が見いだすドーバー・ウィルソン説の不自然な点とし
て新潮文庫版『じゃじゃ馬ならし』解題に紹介されていたのは、こ
れほど杜撰な本が作者名も無しに登録上梓されているのに、シェイ
クスピア周辺の人々が黙認しているという点である。『ロミオと
ジュリエット』や『ハムレット』では、悪しき四折本が出ると、
作者生前にそれを訂正するように第二四折本が刊行されており、
それと同様の反応があるはずだという。しかし『リチャード三世』
では六回版を重ねた四折本がすべて海賊版の第一四折本をもとに出
版されており、改めて作者原稿や台本から起こすことをしていない。
さらにこのテーマを掘り下げるには他の作品の出版状況や『リチャー
ド三世』の第一〜第六四折本の出版が誰の手になるものか、マーロー
とペンブローク伯劇団の関係など、詳しい検証が必要になるのでここ
で追求することは諦める。
ちなみに先述のしり切れに終わっている序劇は、
『Taming of a Shrew』では一貫している。しかし『Taming of the
Shrew』の方も、初めシェイクスピアが書いたときには一貫していた
ものが、後に脱落したのだとする説がもっともらしく、また脱落した
序劇を適当な書き足しでつじつま合わせをおこない『Taming of a
Shrew』が生まれたと考える事も可能で、両者の関係の決め手には
ならない。
なお製作年代特定や上記の問題に関わると思われる事項として、
薔薇座座長ヘンズローの日記1594年の項に、ニューウィントン・
バッツで侍従長劇団が上演した『Taming of a Shrew』を観劇した
という記事があるが、これは冠詞の書き間違いであろうという点で
ドーバー・ウィルソンと福田恆存氏の意見はほぼ一致している。
ただし、実は『Taming of the Shrew』も全てシェイクスピアの
作とは言えないらしい。これは多かれ少なかれシェイクスピアのどの
作品にも言えることで、劇台本は劇団が上演に使用する間に脱落や書
き込みが為されたり、海賊版の悪本が流布してしまったりという事が
ある。それが本作では特にひどく、シェイクスピアの手になる部分は
全体の五分の三程度だと考えられている。恐らくそのせいで、単純な
ミスで辻褄が合わないというシーンが数多く見受けられる。無論シェ
イクスピアとて万能ではなく、ミスの中には彼自身が犯したものもあ
る(むしろ彼は現代のリアリズムからすると、とんでもなく杜撰な所
を時折見せる)。そしてどこの辻褄が合わないシーンが構成の加筆に
よって劇構成が崩れたもので、どこの矛盾はシェイクスピア自ら犯し
たものと、種本等の研究からある程度推定されている。
(4) 種本となった作品
福田恆存氏によれば、ルーセンショー・ベアトリスの副筋に関して
は、イタリア喜劇でアリオストの手になる散文詩『ぺてん師』(1509
年)が種本と考えられている。これはその後作者自ら韻文劇に書き換え
たものが、1513年ルターの宗教改革を誘発した教皇レオ十世の前で演
じられており、1566年にはジョージ・ガスコーニュの手で英語・散文
に翻訳されたものが上演されている。シェイクスピアの手で多少複雑に
仕立てられているとはいえ、対応する配役は全て出そろっている。
しかし主筋のペトルーキオー・カタリーナは特定の種本が確認されて
いない。種本が本当に存在しないとすれば、先述の議論によってシェイ
クスピアか『Taming of a Shrew』の作者の独創ということになる。
しかし、ここからは福田恆存氏はクイラ=クーチの説を紹介する形で
以下のように述べている。以下引用する。
もっとも、クイラクーチによれば、「じゃじゃ馬」なるものはソクラ
テスの妻クサンチッペ以来、常に存在していた。いや、実在していたば
かりではなく、それよりもなお強固に、普遍的な観念として、世間の夫
の脳裡に存在していたはずである。また最後の幕で夫たちが妻の態度に
賭けるという話も、個人の独創と言うよりは、既に民族説話の類型とし
て誰にも知られていたものなのである。問題は、それらがどこまでシェ
イクスピアらしい面目を発揮しているかにある。
追求しても次章につながるものがあまり無いこともあり、この考えを
そのまま受け入れておきたい。
(5) 雰囲気・テーマ・思想
飽くまで笑劇・茶番劇風の作品であって、思想というほどのものは
読みとれない。ただし最終幕でカタリーナが説いて聞かせるあるべき
妻の姿は、当時の女性に求められた規範を考える上で参考になろう。
またシェイクスピアが何のために序劇なるものを生み出したのかを追
求するのも一興であろうが、ここではどちらも断念する。
この作品は喜劇時代にも突入しない習作時代のもので、当然といえ
ば当然だが、悲劇時代の喜劇によく指摘される暗さといったものは感
じられない。シェイクスピアは『ヘンリー六世』『リチャード三世』
という悲劇で世に出た劇作家で、悲劇時代につながるものはこの時既
に存在していたはずであるが、その影を本作中に見出すことは難しい。
この頃はまだ一作品ごとに作者の気分も変えられたということだろう
か。実際どんなに困難な主題を抱えて深く悩もうと、全生活がその色
に染まることは少ないものだ。