※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
2. 『リチャード三世』
(1) 概観
時代設定・登場人物の上から、『ヘンリー六世』三部作の続編に
相当する。また『ヘンリー六世』の最後にグロスター公リチャード
が漏らす独白が本作冒頭の同人物による独白と照応し、重複も見ら
れることから、作者は『ヘンリー六世』が完成した時点で、既にこ
の続編の構想を練っていたのではないかと推測できる。
本作は習作時代と称される作者のごく初期の作品であり、劇構成
の対称性を重視するあまり冗長になってしまった場面などもあって
未だ熟さぬ所が見受けられるにもかかわらず、初演以来現在に至る
まで、四大悲劇に次ぐほどの高い人気を誇っている。それは劇とし
て上演される場合のみならず、台詞の魅力によって読み物としても
多くの読者を引きつけている。
(2) 作劇年代
『ヘンリー六世』三部作に続く内容から、『ヘンリー六世』の後、
1502年以降に書かれた作品であろうと考えられ、また1597年秋に
「侍従長劇団によって最近上演された」と銘打ってはじめてロンド
ンの出版業組合に登録されている(これはシェイクスピア自らが行っ
た登録ではない)ことから、1592~1597という見当がつく。
しかし、ここに当時エリザベス朝を通じて最悪のペスト流行があ
り、その対策として1592年6月から1593年末まで、大都会におけ
る芝居の興行を禁じるという措置がとられているという事実がある。
(未だ細菌の存在も知られていない当時にしては的を射た対策のよ
うだが、経験則によって人の多く集まる場所が悪疫の温床であるこ
とは知っていたか)劇場が閉鎖されれば劇を書いても収入はあまり
期待できず、この時期にシェイクスピアがサザンプトン伯に献じる
二つの物語詩『ヴィーナスとアドーニス』『ルークリース凌辱』を
書いていることからも考えて、劇場が閉鎖されている間はシェイク
スピアは劇作家を休業して、詩作に励みつつ構想を温めていたので
はないかと想像される。1592年に『ヘンリー六世』が完成してか
ら、少し間があくのではないかとの推測が出る。
また、このペストによる劇場閉鎖が解かれた後も、エリザベス女
王が崩御する1603年まで夏から秋の禁制は解けず、ペスト後に生き
残った二つの劇団、すなわちシェイクスピアの関与する「侍従長劇
団」とヘンズローという男が座長を務める「薔薇座」は、夏から秋
にかけて地方巡業に出るようになった。1697年秋の登録が新作発
表後すみやかに為されたものだとすれば、その前の地方巡業に新作
を携えて行ったということになるが、やはり新作は見せ場のロンド
ンで発表するのが自然であろう。よって発表から登録までにも間が
あるのではないかと考えられる。
決め手とされているのは、先述の薔薇座座長ヘンズローの日記で
ある。その1593年12月30日の項に「バッキンガム」なる芝居の上
演が書かれており、これが『リチャード三世』の事ではないかと考
えられる。題名が混乱していると言うことになるが、文体や心理の
描き方などの内証から想像される制作時期と一致することからも、
だいたい1593年中に着手・完成されたものではないかとの説が成
り立つ。
(3) 出版事情・定本
シェイクスピアの作品は彼の死後に同僚作家の手で全集の形にま
とめられており、これを第一二折本という。また作者生前にも出版
が為されているものもあり、これは出版年代によって第一四折本・
第二四折本……というように名付ける。これらの本の中にはシェイ
クスピア自らが登録・出版したものもあるが、海賊版の悪本も存在
する。(生前四折本として刊行されたものは19作品で、そのうち善
本は14,5と福田氏は記す)海賊版は何らかの方法で手に入れた台本
の断片や、観客席に紛れ込んだ速記者による筆記、演じた役者の記
憶、観劇者の記憶・印象などを縒り合わせてひねり出したもので、
台詞の脱落や間違い、場面の混乱、順番の倒錯などひどいミスが多
量に含まれるが、シェイクスピアの台本には書かれていない役者の
立ち居振る舞いが書かれていたりもして、それはそれで貴重な資料
である。シェイクスピア劇作品の古刊本は、すべてこの定式に収ま
る。
では『リチャード三世』の古刊本だが、読み物としても人気が高
かっただけあって、四折本として六回の版を重ねている。その内の
第一四折本が前述の1597年登録のものだが、既に述べたとおり、
これはシェイクスピア本人の手によらない海賊版である。そして第
二〜第六四折本はすべて海賊版の第一四折本を元に編まれたもので
あり、第一二折本ですらかなりの修正を受けているとはいえ、第六
四折本を元にしたものである。すなわちシェイクスピア直筆の台本
や後見用台本から起こされたものは一つもないことになる。
古刊本の中では第一二折本が最も優れていることは、学者の研究
によって明らかであるらしい。しかしそれでも第一四折本に始まっ
て全ての版に受け継がれてしまった間違いの存在は想像に難くない
わけで、福田恆存氏はドーバー・ウィルソンが修正を施した、氏の
翻訳の底本である『新シェイクスピア全集』版の『リチャード三世』
(1954年刊行)こそが「過去の誤りと不正確とを一掃した決定版」
であるとしている。この際ウィルソンは第一二折本・第六四折本の
双方と異なる修正を60箇所前後おこない、完成した版は「それ以前
のあらゆる版本と相当に異なったものになっている」そうである。
素人が聞けば、そんなに修正してシェイクスピア本人の作と離れて
しまわないのかとさえ思われるが、ウィルソンも証明無しに出鱈目
な修正をしているわけではなく、その論文にあたれば納得できる修
正の根拠が示されているのであろう。ここでは論文にはあたらず、
福田恆存氏の記述を受け入れる。
(4) 種本となった作品
本作を初めとする史劇は、当然すべて歴史を叙述した過去の作品
を参考に書かれている。本作は直接的にはホリンシェッドの『年代
記』およびホールの『年代記』を種本としているようだが、リチャー
ドの残忍ながら機知に富み冗談をよく言う皮肉屋でもあるという人
物像の源として、トマス・モアの『リチャード三世記』も重要であ
る。『リチャード三世記』のリチャード像はホリンシェッドの『年
代記』に影響を与えており、それを通じてシェイクスピア作品に流
れ込んだようである。このような単純な悪役とは異なるリチャード
像は『ヘンリー六世』には見られず、『ヘンリー六世』を書いた後
にこの人物像を発見し、劇の中心に据えたものと考えられる。他に
シェイクスピアが入手可能で種本たり得るような作品としては、
トーマス・レッグ作のラテン語による『リチャード三世』と、作者
不詳の『リチャード三世実伝悲劇』があるようだが、前者と本作の
間には関係は認められず、後者からは構成を摂取したらしい。(こ
の構成によって、史実ではエドワード四世即位からボズワースの戦
いでのリチャードの敗死まで15年に渡る物語を、シェイクスピアの
演劇で見ると数週間の出来事のように思われる)
(5) 雰囲気・テーマ・思想
魔性の君主リチャードの手に掛かって、登場人物が次々と粛正さ
れてゆく。しかし最後には運尽きて、ボズワースの戦いにリチャー
ドは殺され、テューダ朝の祖ヘンリー七世がランカスター家のエリ
ザベスと結婚し、ランカスター・ヨーク両家を結合して王位に就く
ことを宣して幕を閉じる。たびたび指摘されるようにテューダ朝エ
リザベスが占める王位の正当性をアピールする内容であるが、それ
は作品自体の鑑賞の上ではあまり意味はない。
本作の魅力は、何といってもグロスター公、のちのリチャード三
世の人物像にあるといえよう。福田恆存氏はこの主人公が、トマス・
モアの『リチャード三世記』に見られる「陽気な皮肉屋」の一面を
受け継いでいると記している。その性格は冒頭の犯行予告とも言う
べき独白の中に既に提示されているが、この事については福田氏の
解題の中に的確に指摘されているので引用したい。「私達は、リ
チャードの性格に、その第二の魅力として、冗談や皮肉を弄ぶ明る
い意識家を見逃してはならない。それは、彼の周囲の人間が、その
愛嬌によってだまされるということではない。むしろその反対であ
る。リチャードは自分の悪を意識していると同時に、それをあえて
他に隠そうとはしていないのである。彼は、いわゆる偽善者のよう
な鈍感な人物ではない。なるほど、手段として偽善の面はかぶるが、
そんなときでも、彼のこまかい神経は、自分が偽善を演じているこ
とを自他の目に隠そうとはせず、明るくそれをぶちまけてしまった
り、それに気づかぬ相手の鈍感を嘲笑したりする。すくなくとも、
自分に向かって、それをはっきり意識していることを示さずにはい
られぬ皮肉屋である。つまり、彼の偽善は偽悪と紙一重なのだ。」
びっこでせむしという肉体的特徴と、恐るべき陰謀の当事者である
という迫力と、軽妙な言葉の数々で、観客は思わずこの人物に釘付
けになり、次々と実行に移される粛正劇に引き込まれてゆく。さら
に作品全体にちりばめられた死は、その間で退屈することを許さな
い。一人が粛正されれば、すぐに次の一人が粛正の対象として浮か
び上がってくるのだ。さらにあまり触れられていないが、冒頭の傍
白の中には醜い容姿に生まれついたが故に疎外された者の恨みが語
られており、自ら陰謀を遂行しつつそれを風刺するような矛盾した
行動を示す点、その後幾度か聞かれる「自分は世辞に疎く世渡りが
下手だ」といった内容の台詞(実際は老獪な策士であって本心を
語った台詞ではないが、ある面でリチャードの本性を捉えている)
と相まって、リチャードを単純な憎まれ役とは異なるものにしてい
るとも言えるのではないか。
劇の進行と共に、作品全体に漂う禍々しさは高まってゆく。そし
て同時にリチャードの良心の呵責も激しくなり、最後の犠牲者バッ
キンガムとの決裂や最終幕ボズワースでの戦闘では、かなり荒れ
狂った姿が見られるようになる。ここでリチャードの兄、クラレン
ス公ジョージがロンドン塔内で見た夢の話や、追放の命を破って現
れたマーガレットがリチャード他の人物に呪いの言葉を吐きかける
場面を「現代の観客にとっては退屈で我慢がならないと言う批評家
が、昔から何人もいる」と書いている福田恆存氏の記述を取り上げ
るが、これはいささか観劇者の側に歪みがあるのではないだろうか。
確かにマーガレットの呪いの場面は一本調子で長く続くためにいさ
さか飽きが来るが、鑑賞者はここで二つの事を印象づけられる。一
つは現在の王位がマーガレットの如き、没落して半ば発狂した犠牲
者の上に成り立っている血塗られたものであるという事、もう一つ
は劇の進行が、リチャード個人の力以上の何者かによって回される
運命の歯車によって支配されているという事である。後者について
説明が必要かも知れない。マーガレットは登場人物に呪いの言葉を
吐きかけるが、これは最終的に実現する。のみならず、鑑賞者はこ
の呪いが実現するであろう事を予期している。するとマーガレット
は劇の進行役のように見えてくるが、同時にマーガレット自身も残
虐な行為を行っているのであり、その事を問いつめられて有効な反
論を為し得ていない。つまり呪いの主体であるマーガレットもまた、
呪いの客体である他の登場人物と同じ地平にいる、加害者かつ被害
者の一人に過ぎないのである。自分の残酷を棚に上げて登場人物を
呪うマーガレットの姿は、そうした人物の小ささを印象づける。ま
た陰謀の主体者であるリチャードにしても、その動機は天与の自分
の容姿など運命によって決定されていた面が強く、また行動を預言
されてしまう時点でこの劇中空間の支配者・進行役ではあり得ない。
劇を動かしているのはマーガレットでもリチャードでもなく「運命」
なのであり、登場人物はすべて運命に操られるコマか、その代行者・
代弁者に過ぎない。
またクラレンスの夢は(1)クラレンスとリチャードが船の上で
親しく話していると、リチャードがつまずき、それを助けようとし
たクラレンスの体に倒れかかったリチャードの体があたって、クラ
レンスが水に落ちる。(2)水のそこには累々たる屍と財宝の山が
積み重なり、髑髏の眼窩に宝石が嵌って生きているように見える
(3)死後、クラレンスは己が裏切った人々の亡霊に責められ、地
獄の悪鬼に取り囲まれる という三つの場面から構成されるが、
(1)は弟を信じ切っているクラレンスが突然陰謀に巻き込まれて
無惨な死を遂げることを改めて突きつける役割を果たしており、
(2)の屍と財宝の生々しい描写は(直喩とはなっていないものの)
薔薇戦争以来の止め処なき殺戮の上に築かれた現在の王座を思わせ、
(3)でクラレンスの死は故無き事ではなく、もはや避けられぬと
いう事を印象づけ、同時にクラレンスの激しい恐怖と混乱の頂点を
形成している。(水中のシーンで終わりにすればクラレンスの恐怖
は頂点に着かず、散漫な印象を残すであろう)そして夢全体では、
彼の死がすぐそこまで迫っていることを匂わせて鑑賞者を緊張させ
る役割を果たしている。つまり、ここは口頭のみで展開されるなか
なかの見せ場ではないだろうか。またクラレンスが水に転落する原
因としてのリチャードに、今ひとつ主体性が感じられない点も魅力
と考えられる。この夢が暗示している実際の陰謀劇ではリチャード
が陰謀の当事者として極めて積極的に動くのに対し、夢の中のリ
チャードは偶然体が当たってしまったという不慮の事故でクラレン
スを水に突き落としており、主体性が感じられない。むしろリチャー
ドの体がクラレンスに当たってしまったという表現は、リチャード
の体が硬直したマネキン人形であるかのような印象を与える。この
表現は、一つには先述の「リチャードとて運命の代行者、一つのコ
マでしかない」という印象を強めると共に、他方ではクラレンスに
助かる見込みは無いという絶望を匂わせる働きをしている。相手が
生き生きとした人間であれば情けも求められようが、倒れかかって
くる主体性の欠落した=無顔貌の人物像には情けを求める余地はな
い。人間的な顔立ちを持たない生きた人間は、常に我々に禍々しさ
と避けがたい恐怖を与える。
ちなみに福田氏は以上の点を「細部のことでしかない」とした上
で、「マーガレットの呪いは、なるほど冗漫でもあり、また型には
まりすぎている嫌いも無いではないが、劇的には、この作品の後身
である『マクベス』の妖婆と等しく重要な役割を果たしている。な
ぜなら『リチャード三世』が一応、復讐劇の形を採りながら、しか
も単なる復讐劇を超えており、劇中、復讐がさらに復讐され、呪い
がさらに呪われてゆくという仕組みになっていて、その場合、リ
チャード王はこの呪いの円環の最初にして最後のものであり、その
背後で呪いの儀式の司祭役をしているのが、このマーガレットだか
らである。」と述べている。なおクラレンスの夢のシーンに関して
は、特に言及はない。
多くの人々がリチャードによって殺される本作品だが、その死に
様には特徴がある。誰もが死の運命から逃れられない地点に来るま
で、リチャードの牙が己を狙うことに気付かないのだ。この点につ
いて岡村俊明氏は、これら殺害された貴族と庶民を対比して、「王
侯貴族の角逐は、しょせんは、権力争いや利益奪回闘争であり、彼
らはいかに腐敗、不正、悪事を見ていても、世の中全体にたいする
視点へと向かわない。それに反して、一介の市民である代書人(引
用者注:ヘイスティングズ卿処刑の際、起訴状を代書した人物)は、
その闘争の圏外にあり、したがって直接の利害とは関係のない社会
にいるだけに、その事件のからくりを知る立場から、広く社会全体
の腐敗を見る立場に移行することができるのである。」と述べてい
る。そして貴族で全体を見渡す視点を獲得したのは死に際のヘイス
ティングズと、皮肉にも陰謀の当事者リチャードと、そして最後に
リチャードを倒すリッチモンド伯ヘンリーの三名のみであると指摘
し、それぞれ「死ぬ人の言やよし」「結局は悪事と血に染まった彼
の王位を、無理矢理に守ろうとする彼のエゴ以外の何者でもない」
「英国の安定をもたらすものは、この劇ではやはり、王侯であると
いうことになろうか。……(略)……リッチモンドのこの台詞こそ、
エリザベス女王を意識し、かつ英国の平安を祈る気持ちも込めて書
いたとも考えられよう。」とコメントしている。
しかし「王侯貴族は権力闘争に明け暮れるばかりで視野が狭く、
庶民は正しく事実を認識している」などという結論は、あまりに底
が浅いのではないだろうか。また、『ジュリアス・シーザー』にお
いて大衆不信を書いた人物が、この頃には貴族を不信の目で眺め、
庶民にこそ希望を見いだすという民主主義者の如き思想を備えてい
たというのも、にわかには信じがたい。彼はサザンプトン伯の庇護
を受けていた人物であり、またサザンプトン伯を愛していたという
説もあるのである。シェイクスピアは貴族が一般に目先のことしか
見えない愚か者達だなどとは考えておらず、また庶民こそは不正を
確かに見抜く力があるとも考えていなかった。ここで庶民がリチャー
ドの邪悪を見抜いているのは、単に彼らがナレーター、解説者、ま
た観客・読者の代弁者という役割を負っているからにすぎない。ま
た同様に、王侯貴族達がリチャードに先手を打てないのも、彼らが
運命に翻弄されるコマの役割しか与えられていなかったからにすぎ
ない。この点については、他の作品とも照合しつつ次章で論ずる。
また本作における死者の死に様のもう一つの特徴として、その台
詞が甚だ退屈なことがあげられよう。ロンドン塔で刺客にキリスト
教の教義を云々するクラレンス、おのれの身の潔白を吠え続けるリ
ヴァーズ・グレー・ヴォーン、暴漢ティレルの口を通して寝顔の美
しさが語られるのみのクラレンスの幼子達、おのれの手落ちとリ
チャードの邪悪を騒ぎ立てるヘイスティングズ、おのれの死を神の
罰に帰するバッキンガム、アンに至っては会話の中で毒殺されたら
しいこと、しかし病死と公表されたことが知られるのみで、いずれ
の死にも改めて目を向けるべき個性は無いように見える。
これは恐らく死者の数が多いことに由来しよう。一つ一つの死を
比較すれば、四大悲劇の中でも最後に仕上げが為されたと考えられ
るマクベスにおいてすら脇役の死にはあまり個性は感じられない。
すなわち、脇役の死は飽くまで脇でしかあり得ないという点では本
作も『マクベス』も大差なく、印象の違いは『マクベス』が思い
切って配役を減らすことで主題となるマクベス夫妻の罪と苦悩を必
要最小限のシンプルな構成の中に書き出しているのに対して、本作
は脇役が多く、その死が幾度も繰り返されるために多少退屈な感を
残すという点に由来するのだ。本作の脇役が多い理由としては、作
者の未熟か、あるいは題を採ったのがシェイクスピアにごく近い時
代の英国史だったため、あまり大胆な改変が不可能であったか、奈
辺が考えられよう。印刷物の形でシェイクスピアを鑑賞する場合に
は、『マクベス』の描かれる死者の少なさは、マクベス統治下のス
コットランドが殺戮の海と化していると台詞で語られたときに読者
が首をかしげることに繋がりかねないが、劇として演じるとなれば
本作の脇役の多さ、描かれる死者の多さは主題に対する不純物と
なって主題をぼかし、冗長にしてしまう面が強い。理由が何であれ、
『リチャード三世』と『マクベス』では、後者がより劇の台本とし
て洗練されていたと言えよう。
最後に、本作について福田恆存氏が二三の作者の手落ちと思われ
る事柄を指摘しているので、その点を軽く触れたい。福田恆存氏の
指摘によれば、この段階では天才シェイクスピアも、「劇の対称性」
というものに縛られていて、それ故の失敗を犯しているという。リ
チャードは劇中二回の求婚をしているが、一回目のアンに対する求
婚は意図が不明確、二回目のエリザベスに対する求婚は、ボズワー
スの敗北へと転落してゆく劇の流れの中であまりに長々と劇の進行
を止めてしまうし、このようなシーンを書けば、観客・読者が劇の
流れを離れてエリザベスの返事を期待してしまうことに繋がり、い
かにもまずいという。なるほどそのように見えるが、ルネッサンス
演劇に求められた「劇の対称性」といった事柄にはあまり通じてい
ないので、これ以上深入りするのは避けたい。
もう一つ、福田恆存氏はボズワースでの決戦前夜にリチャード
(およびリッチモンド)が見る亡霊達の台詞がいかにも陳腐だとい
うことも指摘しているが、これはまったくその通りで、クラレンス
が死刑の寸前に見た夢の方が遙かに迫力がある。ドーバー・ウィル
ソンもこの点については「作者は疲れたのであろう」と批評してい
るそうで、さらに「ある批評家」の「シェイクスピアは、こういう
ページェント(引用者注:見せ物としての野外劇、パレードの類)
式なせりふが生涯、下手だった」という評価も、福田恆存氏は紹介
している。