I. 基本事項

<シェイクスピア略伝>

 基本事項の最後に、シェイクスピア本人の人生を概観する。

 シェイクスピアについては手紙、日記の類がまったく発見されて
おらず、家族などによる纏まった伝記的なものも残っていないので
あろう。シェイクスピア研究を行う誰もが、教会や法廷による記録・
観劇者による批評・同業者による言及・作品と出版記録など断片的
な資料をかき集めて、彼の人物像を明らかにしようと必死になって
いる。日記はシェイクスピア自身が生前に破棄したという想像も可
能だが、手紙に関してはそれは難しく、実際にほとんど書かなかっ
たものと推定できよう。シェイクスピアはゲーテなどと違って専ら
文学にのみ打ち込んだ人物であったが、その中で追求した人間観を
手紙によって他者に知らしめ、共有するという趣味を持たなかった
ということだろうか。あるいは貴族ならざる彼は、サザンプトン伯
を通じて知識人との交流の場はあったとはいえ、その人々に身分を
超えて手紙を書くという事はなかったのか。当時のイギリス知識人
の習慣について調べなければ何とも言えない。

 詩人は1564年にイングランド中部のストラットフォード・オン・
エイヴォンで洗礼を受け、1616年52歳のとき同地で死去した。
父のジョン・シェイクスピアは半農半商で生計を立てる裕福な地方
の名士で、土地の名誉職(恐らく治安判事)にも就いたことがある
、主に皮革を扱う職人・商人だった。母はメアリ・アーデンといい、
その父はヨーマン階級であった。いわばテューダ朝の権力基盤のひ
とつである地方の名士一家の生まれということだが、それ以上のこ
とはよく分からない。1582年には18歳でアン・ハザウェイなる
女性と結婚しているが、この人についてもよく分からず、8歳も年
上であるという事実にいささか興味をそそられる。第一子が六ヶ月
後に生まれたところを見ると、何らかの理由から望まぬ見合い結婚
を強いられたという訳でもないらしい。
 シェイクスピアがロンドンに出た時期については定かでないらし
く、本レポートで大いに参考にした新潮文庫版シェイクスピア選集
解説も「一五八八年頃と推定されている」と歯切れが悪い。役者と
して劇壇に飛び込むが、役者としての彼はさほど優れたところは無
かったらしい。劇作家としての活動はこの年から二年の間に開始し
ている。二年後の1590年にはシェイクスピア最初の作である『ヘ
ンリー六世』を書き始めたと推定されている。(これ以前に合作の
形で作劇に加わっていた可能性がある)
 彼は1590年から1592年の二年間で『ヘンリー六世』三部作を
完成させた。これが当時大いに人気を博したらしく、同じ1592年、
先輩作家のロバート・グリーンがシェイクスピアについて、素晴ら
しい才能の持ち主で既存の作品をアレンジすることに妙を得ており、
劇壇に脅威を与える恩知らずの「成り上り烏」と罵っているそうで
ある。(この年ロバート・グリーンは窮死する)
 シェイクスピアは第一作の完成から五年と経たないうちに劇壇に
確固たる地位を占め、経済的にも成功した。『ヘンリー六世』の続
編に相当する『リチャード三世』や、残虐な復讐シーンで名高い
『タイタス・アンドロニカス』をはじめ、数編の悲劇・喜劇を書い
た他、この時期にはサザンプトン伯に二つの物語詩『ヴィーナスと
アドーニス』『ルークリース凌辱』を献じており、この二編を出版
した印税はシェイクスピアの懐を大いに潤した(特に『ヴィーナス
とアドーニス』は彼の名を確固たるものにした作品と目される)。
この間92年のロバート・グリーンの窮死に続いて、93年にはクリ
ストファー・マーロウが刺殺され、94年にはシェイクスピアが尊敬
していたとされるトーマス・キッドも窮死し、劇壇の大物が倒れた
後はシェイクスピアの独擅場であったと考えられる。更に1592年
(1593年と書いた資料も存在する)にエリザベス朝を通じて最悪
のペストが流行し、翌年までロンドン市内の全劇場が閉鎖され、各
劇団は大打撃を被った。このペストをくぐり抜けてなおも従前通り
の上演活動を行いうる劇団は、ペスト騒ぎが収まった頃からシェイ
クスピアが所属するようになった侍従長劇団(それまではペンブ
ローク伯劇団)と、ヘンズロー(その日記が度々シェイクスピア作
品の製作年代推定に役立つ)が座長をつとめる薔薇座の二つぐらい
だった。シェイクスピア本人がこれらをどう思っていたか分からな
い(シェイクスピアはマーロウを尊敬していたという)が、彼に有
利な状況であったことに異論の余地はあるまい。1595年には『ロ
ミオとジュリエット』を発表して劇団の第一人者と認められるよう
になり、喜劇時代に突入していった。観客の人気も集まり、エリザ
ベス女王の前で作品を上演する機会もあり、正に順風満帆と言った
ところであったろう。96年には長男のハムネットがこの世を去って
いるが、作品上にその影響はみとめられない。97年には晩年を過ご
すことになる大邸宅「ニュー・プレイス」を購入した。
 1599年に落成したグローブ座のこけら落としのために書き上げた
ものと思われる『ジュリアス・シーザー』を境に、彼は悲劇時代に
突入したとされる。この頃にシェイクスピアの身に何が起きたのか
については様々な憶測がなされており、父の死に原因を求める者、
エセックス伯・サザンプトン伯の刑死が原因ならんとする説、その
サザンプトン伯を通じて知り合ったフローリオの和訳でモンテーニュ
の懐疑論に触れたのが気鬱の原因とする説、はたまた彼のソネット
に歌われた「黒の婦人」に関する失恋が原因だとする説などがある。
シェイクスピアのソネットは、その多くが「W・H氏」に捧げられ
ているが、この「W・H氏」というのはシェイクスピアを庇護して
いたサザンプトン伯の事であろうとされている。もしそうなると、
さらに詩に登場し、シェイクスピアが切々と愛を語っている少年も
同一人物であろうということになる。そして問題の「黒の婦人」は
シェイクスピアが深く愛していたにもかかわらず「W・H氏」と恋
仲となって彼を裏切ったと詩の文言にある。「W・H氏」が誰のこ
となのか正確には分かっていないこともあって、解釈としては「情
人を友人に奪われたらしい」ということになっている。
 何はともあれ、この時期にシェイクスピアは四大悲劇をはじめと
する数々の名作を書き上げた。1601年には父ジョンが没し、同じ
年にエリザベス女王の寵を受けていたはずのエセックス伯が反乱を
企てて失敗、処刑。サザンプトン伯も連座で処刑される。1603年
にはエリザベス女王が崩御し、かわってスコットランドからジェー
ムズ一世がむかえられたが、この際侍従長劇団は勅許により国王劇
団と改め、より自由な公演活動ができるようになった。1607年には
長女が結婚し、翌年生前唯一の孫が誕生した。
 1608年頃から、「ロマン劇時代」と呼ばれる時代にはいる。同じ
08年には母が没した。「ロマン劇時代」には当時後輩作家が始め、
世に流行った「悲喜劇」なるものの影響を受けつつ四編の喜劇を書
いたが、1610年頃にはロンドンを退いてニュー・プレイスに居を
移し、1611年には引退を宣言した。最後の戯曲『あらし』は1612
年頃に書き上げられたとされるが、そこには自ら劇場まで出向くこ
とをやめたからか、『あらし』にはそれまでの作品には無かったほ
どの事細かなト書きがついている。
 1613年、シェイクスピアが未完に終わらせたものをフレッチャー
なる作家が補筆完成した作品『ヘンリー八世』の初演中に火事があり、
シェイクスピアの名と切っても切れないグローブ座の建物が焼け落ち
たらしい。
 1616年、次女が結婚式を挙げた一月半ほど後、シェイクスピアは
故郷で静かに息を引き取った。享年は52歳、当時の平均寿命が今よ
りも短かったにせよ、横死したわけでもない成功した人としては、
やや短命な印象を受ける。