<妄想>

制作日:2002年5月16日


 「妄想」とは、実在しないものを実在すると思いこむことである。ある人が
「あの人は私に悪意を持っている」という妄想を抱いているとすれば、この
「悪意」は妄想であって、実在はしない。この意味では「妄想されたものは、
実際には存在しない」「妄想は実在しない」と言える。
 しかし、私は以下に「妄想は実在する」という命題を立ててみたい。パラド
クシカルに聞こえるだろうが、単なる言葉の綾であって、そんなに訳の分から
ないことを言おうというのではない。

 例えば、夜、墓地の近くを歩いていたとしよう。見ると、闇の中に誰かが
立っているようだ。いつか聞いた怪談が貴方の脳裡をよぎる。貴方は何となく
怖くなり、道を迂回して家路を急いだ。しかし、人が立っているように見えた
のは、ただの立木であった。この場合、幽霊は妄想のなかにしかおらず、実在
はしていない。しかし、この幽霊妄想が貴方の頭の中に存在しなかったとすれ
ば、貴方は迂回路を使わなかったはずである。迂回路を使ったおかげで、貴方
が迂回路の途中で暴漢に出くわしたら、どうであろうか。貴方の運命は随分
違ってくる。この点で、幽霊の妄想は現実の世界にいくらかの影響を与えてい
るし、ある場合には大きな影響を与える事もある。現実の世界の在り方に影響
を与えている以上は、「幽霊の妄想は実在した」と言ってよいのではないだろ
うか。幽霊は実在しなかったが、幽霊の妄想は実在した。妄想は実在するので
ある。

 あらゆる妄想・幻想・虚構は、それを所有する人々の行動を介して現実に対
し影響力を行使する。あらゆる妄想は実在するのである。私は実在しないとこ
ろの「妄想されたもの」と、まさに実在する「妄想そのもの」を区別し、しば
しば「妄想の実在」を語る。私は二つのことを注意してこの文章を締めくくり
たい。まず、議論においては上記の「妄想されたもの」と「妄想そのもの」を
区別すべき事。次に、妄想を「たかが妄想、存在せぬもの」と軽視せぬ事であ
る。特に後者については気を付けねばならない。一つの妄想が多くの人を捉え
たとき、妄想は現実を大きく揺さぶり、個人には抗いがたい、時に禍々しい力
を行使するのである。

 「妄想に過ぎない」という言葉に惑わされてはならない。私の考えによれば、
我々が生きる基盤をなすのもまた、論理や真実であるよりは妄想の類縁である
と思われるのだ。