「自由」という言葉は、古来より老若男女貴賤を問わず重要なキーワードの
一つであったろう。自由主義者はこれを創造性と活気の源として称揚し、個人
主義の蔓延による社会の崩壊を危惧する人々は勝手気ままな自由を告発する。
自由は大体において良いものとされ、上記のような「勝手気まま」の弊害に
対しては、「自由と勝手は違う」という論理を立てて、概念を分ける事で辻褄
を合わせたりする。西欧の哲学者の中には「理性に従い、善を指向しうること
が自由である」などと言う者もあるが、このへんは「自己」という概念をどの
ように見るかという問題が関わってこよう。「自己」の本質を「理性」である
とすれば、「感情」は「理性」のままに行動することを妨げる、自己を束縛し
ようとのしかかってくる他者と言うことになる。また洗練された社会思想にな
ると、「束縛からの解放は消極的な自由であり、政治・社会制度に積極的に参
加し、社会の福祉を向上させることこそが積極的な自由、目指すべき自由であ
る」として、むしろそのような形での社会の意志決定を有効なものとして個人
に強制できることが自由であるという、アクロバット的な論も存在する。これ
などは人間全体の幸福を目的として、それに合致するように自由の概念を定め
たといった所であろう。
私の論では、社会の福祉や人々の幸福も本当に価値があるかどうかを検討せ
ねばならない概念として扱われるから、当然自由も人々の幸福・社会福祉を前
提とせず、倫理とは独立して考えることになる。私の論において、「自由」と
は限りなく「勝手気まま」に近い概念であり、「自己」の範囲の取り方に従っ
て変化する不安定な概念であり、また「自己」の範囲をひたすら狭く突き詰め
ると、相当ラディカルなかたちをとる概念である。倫理と接続されない限りあ
らゆる自由が含まれ、倫理との接続を待って初めて、我々の常識に従っても納
得しうるものとなる。ただし、この際いかなる倫理と接続させるかによって、
最終的な姿も異なる。これによって異文化の異なる価値観や倫理的に崩壊して
いるとされるような芸術家の行動様式をも、例外の異常者ではなく論の範囲内
で扱い得るようにしたいと思う。