3.先進国におけるアイデンティティの状況

個人アイデンティティと集団アイデンティティの未だ指摘していない差異
として、個人アイデンティティは成熟した個人において確立されているが、
集団アイデンティティはしばしば未成熟の国家・国民において特に盛り上
がるという事がある。すなわち歴史を振り返れば、殊にフランス革命以降、
実にあらゆる国家・国民は危険な集団アイデンティティの興隆を経験して
きたが、その歴史の先端において、消費文化が爛熟したと見えるアメリカ・
日本等先進国で、アイデンティティの希薄化が指摘され、コミュニタリア
ンの問題意識の中心を為している。
これを上記概念で分析すると、集団アイデンティティが個人アイデンティ
ティに内部化されることが少なく、しかも個人アイデンティティに固有の
内容も希薄化していると考えられる。
このような事態がなぜ生じているのかについては、それぞれについて複数
の原因が指摘できるであろう。集団アイデンティティが個人アイデンティ
ティに内部化されない原因としては、社会集団の安定化・均一化、政治の
高度化、個人の孤立化という三つの要因を挙げておきたい。(*12)

(1) 社会集団の安定化・均一化
他者を前提として初めて集団アイデンティティは意味を為す。しかし社会
集団間の関係が安定し、政治的対立が真に深刻なものではなくなり、経済
が主要な問題となった先進諸国においては、他者を強烈に意識する必要も、
自集団のアイデンティティを明確化して政治勢力としての能動性を高める
必要も少なくなる。同時にアメリカナイゼーションの進展と共に各国民毎
の固有性は希薄化し、自由資本主義先進国民として諸国民が均一化してい
る。そこでは、たとえば関係のある企業のアメリカ人社員と日本人社員の
差異より、同国籍の競合他社社員の方が、より遠い他者として現れるかも
知れない。これは、ある社会集団に属していても、それが集団アイデンティ
ティとして意味を持たないという事である。

(2) 政治の高度化
民主主義の成立以来、政治は永らく階級間対立として描かれ、主権者は保守
か革新かという大まかな方向性のいずれかを選ぶことで、深い政治へのコ
ミットが可能であった。しかし今日、殊に日本においては保守/革新とい
う枠組みが曖昧になり、政治そのものが全体を通じた保守・革新の二択か
ら、多くの細かい論点に対する無数の(しばしば何が違うのかさえよく分
からない)選択肢からの困難な選択問題、あるいはそもそも選択肢が明確
に呈示されない、答えを創作せねばならない問題へと変貌してしまった。
すなわち政治に主体的に関わるために必要な知的水準が大幅に向上してし
まい、従って政治参加のコストが膨れあがってしまった。一方で社会集団
が安定化することで、政治的主張をそこまで強力に行わなくても、それほ
どの不利益は被らないようになり、政治参加のベネフィットは縮小する傾
向にある。(*13)結果、多くの人々は地方自治・国政ともに積極的には
参加しないようになり、政治的社会集団への帰属意識も希薄化してしまう。
これは、そもそも政治的社会集団への所属が困難であるため、集団アイデ
ンティティとして働かないという事である。政治的社会集団への帰属を
失った人間は、公的な集団としてはせいぜい職場集団に所属する程度で、
他には数名の友人と家族くらいしか他者が存在しないという状況に陥る。

(3) 個人の孤立化(*14)
現代社会(特に都市空間)においては、人間は様々な面から、その個性・
内面を抑圧するよう圧力を受けている。すなわち消費に着目すれば、現代
の販売システムにおいては売り手も買い手も無顔貌の大衆の一人として、
名前が問題にならない不定冠詞付きの人間として扱われる。また労働に着
目すれば、特に接客業において顕著であるが、就労中は自己の内面を隠蔽
し、揃いの制服と奇妙な発音と人形のような笑顔によって規格化される。
学校教師は子供の個性を抑圧してはならないとの理由から、自分の個人的
偏向を露呈すまいとして無難に教科のみを教えるようになり、大学生は教
官を機能としてしか見ていないがために、講義を受けに遅刻して教室に
入っても、教官の目の前を堂々と通り過ぎる。これらの現状は人間関係に
おいて他者を機能・モノとして扱い、また自己を機能・モノとして表出し、
深い精神活動・成熟を拒否する方向へと人々を導く。人々が他者を人格を
備えた人間としてではなく、単なる機能・モノとして捉えるとき、そこに
は本当の意味での他者は存在せず、従って他者との人間関係形成、他者の
集合としての社会集団への帰属も有り得ない。
これは、政治的なものに関わらず、現代の先進国社会では、社会集団一般
への所属が困難であるため、集団アイデンティティとして働かないという
事である。この状況が極端化すれば、彼には他者が存在しなくなり、従っ
てアイデンティティも他者による承認を得られず消滅してしまうのではな
いかと考えられる。

以上集団アイデンティティが個人アイデンティティに内部化されない原因
を論じた。一方、個人アイデンティティに固有の内容が希薄化していると
は、信念・思考法・善悪に関する判断・自己の正当性に関する言説の空洞
化を意味する。ここにも「個人の孤立化」に関して述べた深い精神活動・
成熟を拒否する傾向が関係する。善悪に関する判断を考察しない個人は最
もプリミティブな幸福としての身体性に密着した快適性や、善とは何かと
いう問を留保したままでも、善の内容が分かったときには、いつでもそれ
を贖い得るという保証、すなわち貨幣を追求し始める。その延長上には、
既に述べた他者不在という状況が待ち受けている。その極端化した姿がい
わゆる「オタク」であろう。

かかる状況においては集団アイデンティティの危険性を回避することより、
個人アイデンティティの成立を目指す必要があると考えられるが、そこで
は第二章「集団アイデンティティの危険な相貌」において述べた事柄が活
かされるべきである。すなわち個人アイデンティティの貧困な者は容易に
一つの集団アイデンティティに囚われる危険性を有している。これが「癒
しとしてのナショナリズム」が容易に人々を捉えた理由ではないか。アイ
デンティティ確立においては、できるかぎり多様な集団アイデンティティ
に帰属しつつ、同時に集団アイデンティティ以外の個人アイデンティティ
の構成要素も充実が図られねばならない。