(1) 自己実現と二つのアイデンティティ
このような事態の例としてすぐに思いつくのは、ナチスドイツ・戦前日本等近代
国家による侵略戦争の例、あるいは旧ユーゴ・パレスチナ等民族紛争地域の例、
南アのアパルトヘイト・米国のブラックパンサー等人種差別や差別への反対行動
の例などである。これらに共通する点として経済的窮乏・社会的差別などにより
自己実現が阻まれ、個人アイデンティティが危機に曝されている点が指摘できる。
個人アイデンティティの危機において個人が何らかの行動に駆り立てられるのは
当然であるが、恐らくこのとき、個人アイデンティティの危機が政治的対立に由
来すると認識すると同時に、他集団からの差別の視線を内部化することで自集団
の枠を形成し、(*9)自集団の現状に対して本来あるべき姿を対置する言説、あ
る種の物語を、過去や現状を参照しつつ生み出す。自集団の枠に関する言説を
「自己定義言説」自集団のあるべき姿に関する言説を「理想言説」と呼べば、
集団アイデンティティは自己定義言説と理想言説の二つの部分から構成されると
説明することができよう。すなわち経済的窮乏・社会的差別などが存在するとき、
これらが政治的対立に由来すると認識されれば自然と自己定義言説がうまれ、理
想言説を形成し、これを実現することで経済的窮乏・社会的差別を克服し、個人
アイデンティティを回復しようとする、そのような反応が人々の間から自然と現
れてくるのだと考えることができよう。
すると集団アイデンティティの危険な側面を回避するための一つの処方が提案さ
れる。すなわち諸個人が自己実現に不自由を見出さないようにしていれば、集団
アイデンティティは激化しづらいということである。
(2) 個人アイデンティティの重層性と「底」
また、集団アイデンティティが危険な相貌を現すときの特徴として、集団アイデ
ンティティが個人アイデンティティを抑圧してしまうという現象が見られる。こ
れは自集団を政治勢力としてより強力にしようとするあまり、集団メンバー相互
に働くようになる力学であろうが、ここにも集団アイデンティティの危険な側面
を回避するための一つの処方が示されている。すなわち集団アイデンティティが
個人アイデンティティを抑圧しようとするならば、それに抵抗する個人アイデン
ティティの内容があれば、集団アイデンティティの個性抑圧をはねのけることが
できよう。この意味では個人アイデンティティの充実が必要との結論が導かれる。
もっとも、こう書くのであれば、個人アイデンティティの充実とは具体的にどう
いう事を指すのかを明らかにせねばならない。この問にはいくつかの答えがある
と考えられるが、ひとつの回答が、多くの集団アイデンティティを持つことであ
る。すなわちあらゆる個人は人類社会の成員として、国家の国民として、都市の
市民として、地域コミュニティのメンバーとして、家族の一人として、多様な社
会集団に所属している。これら多層的な集団アイデンティティを明確に身につけ
ることによって、そのうちのいずれの一つにせよ、他のいくつもの集団アイデン
ティティを抑圧して一個の個人の個人アイデンティティ全体を支配することは難
しくなる。多くの集団アイデンティティを持つことで多層的なアイデンティティ
を形成することは、特定の集団アイデンティティに支配される事への耐性を高め
る効果が期待される。(*10)
個人アイデンティティの充実とは何を意味するかという問いに対するもう一つの
回答は、集団の一員としてのアイデンティティ以前の、個人に固有のアイデンティ
ティ内容を深めることである。すなわち個人アイデンティティの内容とは自分が
如何なる集団に属しているかという内容のみならず、個人的な信念・思考法・善
悪に関する判断・自己の正当性に関する言説をも含み、個人アイデンティティの
「底」を形成していると考えられる。ある一つの集団アイデンティティが個人ア
イデンティティ全体を支配しようとするとき、別の集団の一員としての立場から
これを相対化するだけが選択肢ではなく、一個人としてこれを批判するという選
択肢も存在するはずである。
なお、ここで集団アイデンティティ/個人アイデンティティという概念について
もう一度検討を加えておく。二つのアイデンティティ概念を同一物として論じる
ことの問題性を明らかにする事が本レポートの課題の一つであるが、集団アイデ
ンティティが危険な相貌を現したとき、これが個人アイデンティティと混同され
ることによって、攻撃的な集団アイデンティティの正当化が為される危険性があ
ると考えられる。個人アイデンティティの確立は如何なる個人にとっても必要な、
正当な事柄であるが、それと混同させることで集団アイデンティティの内容、す
なわち自己定義言説と理想言説の内容とその達成も、必要かつ正当な事柄とされ
る可能性がある。ところが自己定義言説・理想言説とも、実際はしばしば恣意的
に定められる。(*11)これを避けるためには、あえて集団アイデンティティを
個人アイデンティティから弁別するか、些か乱暴ながら、そもそも集団に対応す
るアイデンティティなる概念を認めないことが有効であろう。