1.ふたつのアイデンティティ?

(1) アイデンティティ論の風景
アイデンティティなる語を、単に同一性というに留まらぬ独特の含意を
持った概念として用いた最初の人は精神分析学者E・H・エリクソンで
ある。(*1)百科事典・国語辞典によれば、エリクソンが定義したアイデ
ンティティとは「『自己確立』ないしは『自分固有の生き方や価値観の
獲得』にほかならない。……個人は共同体の固有の価値観に自己を同一
化し、そのなかでさまざまな社会的役割を積極的に引き受けることによっ
て自己を確立する。……」(*2)「他者とは違う本当の自分、自分であ
ること、自分らしさ、自己の存在証明、主体性」(*3)とも言い換えら
れ、「自己の単一性・連続性・普遍性・独自性の感覚があること、ある
特定の対象や集団との間で是認された役割と連帯感がもてること、など
の特質がある」また「エゴ−アイデンティティ」「自己同一性」「自我
同一性」と同義である。
ここでひとつ疑問が生じる。このエリクソンが提唱したアイデンティティ
概念は明らかに個人を対象としたものであるが、我々は「民族のアイデン
ティティ」などというように、アイデンティティなる語を社会集団に適用
することがある。しかしここに挙げた説明を「民族のアイデンティティ」
の説明であると仮定して読むと、たとえば「アイデンティティ=エゴ−ア
イデンティティ」である以上「民族のアイデンティティ=民族のエゴ−ア
イデンティティ」なる奇妙な言い換えが成立してしまう。「エゴ」は同じ
く精神分析分野が扱う概念であり、あくまで単一の肉体を備えた個人に属
する概念である。(*4)
すなわち社会集団にアイデンティティを結びつける用語法は、エリクソン
が創出したアイデンティティ概念の原義を尋ねると、厳密に言えばカテゴ
リーミステイクである。では、「民族のアイデンティティ」なる概念は一
体何を指しているのか。ここで「民族のアイデンティティ」なる概念が実
際にどのように用いられているのかを明らかにする。参考とするのはバリ
バール&ウォーラーステインの著書『人種・国民・階級 揺らぐアイデン
ティティ』である。

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「ウォーラーステインは、人種(race)、国民(nation)、エスニシティ
(ethnicity)という『民族(people)』を創出する三つの大きな歴史的様式
を区別することを提案する。……確かなことは、国民と民族を歴史的構築
物として理解することが重要であると考える点では、われわれ二人が一致
していることである。このような歴史的構築物のおかげで、現在の諸制度
や様々な敵対関係が過去に投影され、その結果、個人の『アイデンティ
ティ』の感情を左右する『諸共同体(communautes)』に相対的安定性が
付与されるのである」
(『人種・国民・階級 揺らぐアイデンティティ』「序文」)
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ここに見られる「アイデンティティ」という語の用法は、「個人の」と
いう形容詞が付いている点でエリクソンが呈示した概念からさほどずれ
ない。しかし以下の引用はどうであろうか。

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「こうした『証明』は人間集団(実際は国民集団ということ。とはいえ、
国民(nation)という政治的カテゴリーの人類学的意義は明らかに疑わ
しい物ではあるが)の『自発的』傾向、すなわちその伝統を、したがって
そのアイデンティティを維持しようとする傾向と直接に結びつけられるの
である」(前掲書第一部第一章「新人種主義は存在するか?」)
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ここではアイデンティティという概念が「国民集団が自らのアイデンティ
ティを維持しようとする傾向」という形で、国民集団に帰属するものとし
て描かれている。本レポートはバリバール・ウォーラーステインらの主張
を詳しく検討することはしない。ここで重要なのは、第一に、政治思想学
者の中に「アイデンティティ」という概念を、特別な断り無しに意味をブ
レさせて用いている者がいること、にも関わらず百科事典や国語辞典は
「民族のアイデンティティ」といった用法を網羅していないという事実で
ある。辞典類が網羅していない用語法が、慣用的に、あるいは野放図に用
いられているのが現状ではないかという疑いが生じる。
第二点目として重要なのは、第一の「序文」からの引用が示す構図、すな
わち「諸共同体」が個人のアイデンティティに影響を与えるという図式で
ある。社会集団に対応するアイデンティティなるものが存在するとすれば、
それはこの「諸共同体」がそれぞれに持つ(と想定される)性質を抽出し、
ひとつの概念として纏め上げ名を与えたものということになろう。しかし、
この構図を用いれば、そもそも社会集団に対応するアイデンティティなど
仮定しなくとも、事は説明可能であるようにも思われる。すなわち社会集
団に対応するアイデンティティなるものは存在せず、アイデンティティは
飽くまで個人に属する概念であり、社会集団がこれの一部を形成すると説
明して、この社会集団から個人のアイデンティティへの影響には、敢えて
名を与えずに済ませることもできよう。

(2) 二つのアイデンティティ
そもそも両概念の差異は、単に対象の規模のみに留まらないことに注意せ
ねばならない。その差異を以下に確認しよう。なお、ここでは論を展開す
る便宜上、「二つのアイデンティティ概念」という構図はそのままに、こ
こで両者を対象によって個人アイデンティティ/集団アイデンティティと
呼び分ける。(*5)

両概念の相違点としてまず目に付くのは、定義から帰結される対象の違い
であろう。すなわち個人アイデンティティは個人に帰属し、集団アイデン
ティティは集団に帰属する。ただし、ここで注意せねばならないのは個人
と社会集団とを同列に論じることには問題があるということである。すな
わち個人は明らかに実在する概念だが、集団とは個人の集合としてのみ存
在し、その概念に対応する実在物はない。いわば唯名論的存在者である。(*6)
従って集団アイデンティティは社会集団という唯名論的存在者に対応する
概念なるが故に、それ自身が唯名論的概念であり、具体的に論ずる際は常
に、その構成員である個人を、その延長上に想定せねばならない。集団ア
イデンティティは個人に、より具体的には、個人の持つ個人アイデンティ
ティに、影響を与えることで初めて現実の存在者に影響を与えることが、
つまり現実の存在者として認められることが、できる。この意味では集団
アイデンティティなどというものはそもそも存在せず、実在するアイデン
ティティは個人アイデンティティのみであるとも言えよう。
個人アイデンティティは現実の存在者と即対応しているが、集団アイデン
ティティは個人アイデンティティに影響を与えることで初めて存在者たり
うる。この構造の相違から、他のいくつかの相違が帰結される。すなわち
個人アイデンティティと集団アイデンティティとの内容に関して、両者は
共に対象となる個人/集団の固有性を保証し自他を峻別するが、集団アイ
デンティティは集団を他から峻別した上で、その集団に属する諸個人を同
一の名称の元に糾合し、その差異を隠蔽する。これとやや重なるが、個人
アイデンティティは個人の多様性を許し保証するかたちで形成されるが、
集団アイデンティティは諸個人を規格化する方向性を持つ。また、個人ア
イデンティティは対象となる個人の全人的内容を含むのに対し、集団アイ
デンティティは対象となる集団の性質として想定される全ての内容を含む、
あるいは対象集団の全性質を含むと想定される(*7)が、それは集団に所
属する諸個人の全性格では有り得ない。また個人アイデンティティは情緒
的な結合関係の可能な比較的小規模な集団への帰属が重要と考えられるが、
集団アイデンティティは一民族・一国民など相当に巨大な集団を単位とし
て、同じく巨大な他集団との関係を前提として成立する。
上記の構造上生じる多くの差異は、現実の社会において両者間に機能の差
異を生み出す。すなわち個人アイデンティティは個人の成熟の条件である
が、集団アイデンティティは、強調されることによって、ある社会集団が
成員を糾合し、政治勢力としての力を持ち能動化することを助ける。エリ
クソンが定義したアイデンティティ=個人アイデンティティは自己と、そ
れを包含する社会という構図の中で形成され、所属集団との相互承認に基
づく役割と連帯感がもてることが条件として挙げられ、結果として個人は
共同体の固有の価値観に自己を同一化するとされる。ここに見られるのは
個人と外部との和合的な関係である。それに対し、集団アイデンティティ
は、それを有する集団の構成員にしばしば外部に対して対立的な、あるい
は少なくとも挑戦的な、政治的行動をとるように要求する。すなわち集団
に糾合された諸個人と集団の外部との対立的な関係が生じやすい。これは
たとえば公民権運動や障害者の権利主張といった形で、建設的な形で利用
することもできる。しかし集団アイデンティティがあまりに強調されすぎ
たとき、それは決して個人の全性格でないにも関わらず、個人をして、そ
の集団の一員であることを個性より優先させるよう要求する圧力として働
く危険性も持つ。(*8)公民権運動や障害者の権利主張においては、運動
の開始はしばしば挑戦的であるが、それが外部集団との和解・妥協に達し
相互承認が成立すると同時に、集団アイデンティティの強調は緩和され緊
張は解消される。しかし集団アイデンティティがあまりに強調されすぎて
いるとき、外部集団との間にしばしば相互承認は成立せず、いつまでも集
団アイデンティティを強調して外部集団と競合し排除しあう。

アイデンティティを巡っては、個人の成熟との関係からこれを賛美するコ
ミュニタリアンのような立場と、ナショナリスティックな言説との関係か
らこれを危険視するバリバール&ウォーラーステインやハーバーマスのよ
うな立場があるが、この立場の相違は、本論の論理展開を用いると、要す
るに別概念について論じているために意見が一致しないと説明できる。こ
の手の議論の混乱はしばしば生じているのではないかと想像できるが、こ
のような議論の混乱を解消するためにもアイデンティティを二つの概念に
わけて考えることは意味があるのではないだろうか。そして集団アイデン
ティティは唯名論的概念であり、ハーバーマスらの懸念は集団アイデンティ
ティが過剰に強調され、個人アイデンティティに過剰に影響力を振るうと
き現実のものとなる。では次章で集団アイデンティティがどのようなとき
に攻撃的・抑圧的な相貌を現すのかを考えよう。