この論は人々が如何にして「悪魔のひき臼」に進んで飛び込んでいったかを
鮮やかに描き出す。ヨーロッパの重商主義時代/日本の戦後に、狭い地域コ
ミュニティは解体され、人々は対面的空間から公開的空間へと引き出される。
そこには既に階級差が存在した。人々ははじめ上の階級へと合流するために、
後には人並みになるために、悪魔のひき臼に飛び込んで貨幣利得を追求し始
める。上述A公開的・社会的価値志向の消費資本主義である。この段階では
人々は自己調整的市場に身を投げ込みながらも、その価値基準を未だ解体さ
れきらない社会に求める。
しかし、これが次の段階B公開的・個人的価値志向に進むと、他者との差異
化を通じた「自分探し」が消費の目標となる。この個人内面における社会の
退行は、恐らくポランニーの描いた現実における社会の解体と軌を一にして
いる。人々はより経済制度の優位性が高まった社会で、その経済活動を主に
消費の側面から捉え、如何なる消費を行うかが彼のアイデンティティを決定
し、如何に価値ある消費生活を営むかが人々の関心事となる。
ここで人々のアイデンティティについて考察してみたい。消費資本主義の最
先端を走る先進国においては、たとえばコミュニタリアンらによってアイデ
ンティティの希薄化が問題視されているが、ここでコミュニタリアンが問題
とするアイデンティティとは、自己が如何なる社会に属しているかという集
団帰属を巡るアイデンティティである。しかし社会は行政区画としては存在
しても、その実質は自己調整的市場によって既に破壊されているのである。
そこで人々はアイデンティティ形成における社会への依存度を減少させざる
を得ず、代わって今や唯一の社会制度となりつつある自己調整的市場にアイ
デンティティの根拠を、個人の実存の根拠を、求める。
しかし価値に関する根元的な問は自己調整的市場からは導出されない。新古
典派経済学によれば個人がいかなる消費をするか、なぜそのような消費をす
るかは究極的には不明だし、不明でまったく問題はないとする。それでも個
人は合理的に選択しており、経済は円滑に営まれる、と。自己調整的市場が、
そして新古典派経済学が語る価値とは、ただ効用を最大化せよということで
ある。時には、この効用とは貨幣量と同義ですらある。
ポランニーは社会の解体と抵抗の二重運動が20世紀を決定すると考えたので
あろう。しかし恐らく、社会の解体はポランニーの予言通り進行したにもか
かわらず、社会の抵抗はポランニーの予想より遙かに少なかった。人々は悪
魔のひき臼を、初め恐れをもって眺め、やがてその魅力に囚われ、人々は初
めこそ激しい抵抗を見せたものの、ついには社会無き経済世界に順応したの
である。我々は時に労働として買い叩かれる自己の存在に哀愁を感じつつも、
目の前の財を我が物とするために喜び勇んで自己を悪魔のひき臼に投げ込む。
今日よりもより良い消費を保証する鉄の顎。ここが我々の夢の国である。
しかし、消費社会の最先端を走る渋谷の街を歩いていて、我々は虚しいもの
を感じる。社会無き経済世界は我々の実存を支えるほどの豊かな価値観を育
み得ていないのではないか。我々は現状の自己調整的市場に頼って自己のア
イデンティティを十全に形成することはできないのではないか。本来アイデ
ンティティの内容とは、個人的な信念・思考法・善悪に関する判断・自己の
正当性に関する言説等々をその基底とし、その上に多層的な集団帰属をもつ
ものではないだろうか。そして価値観とはアイデンティティに対応して個人
的哲学的内容・社会への帰属欲求・共同体と共有している内容等を含んでい
るものではないか。
△△△△氏(都市論・消費社会論担当教員)が現代都市の欲望として指摘す
る「快適性」を、社会無き経済世界の価値観を表す言葉として考えることが
できよう。人々は他者との差別化を図る消費によって「快適」を追求する。
△△氏の言葉を借りれば、この欲望は「身体性に密着」している。なぜ身体
性に密着しているのか。それは恐らく、この世界に住む人々が、身体性から
独立した価値観を、既に失っているからではないだろうか。そもそも価値と
は定義が困難なカテゴリーであり、深い精神の活動の中からようやく定義さ
れてゆく。しかし、そのような深い精神活動を保証する人間性の成熟が、こ
の社会無き経済世界では、充分に満たされていないように見える。
ところで、成熟とはそもそも何か。一般的には経時変化によって価値が増大
することと定義できようが、これでは曖昧に過ぎる。人間における成熟の定
義は困難だが、ここでは乱暴を承知の上で「人間関係の処理能力・ゲマイン
シャフト的組織の運営能力を高めること」が成熟の重要な一要素であるとし
て考察を進めたい。すなわち家族をはじめとする人間関係の処理が巧みで、
そうした人間関係の濃厚な集団(=ゲマインシャフト的集団)を守り育てる
支柱となる者、周囲の幸福を保証する者のことを、経時変化によって価値を
高めた人間、すなわち成熟した大人というのではないか、という事である。
人間の成熟を否定する要素は社会無き経済世界に満ちあふれている。ここで
は雑多に4点を指摘する。
(1) 生産要素市場が要請するゲマインシャフトの解体
人々は土俗的地域コミュニティから切り離され、不特定多数の個人が短時間
の内にすれ違う都市へと投げ込まれる。人々は希薄な人間関係の中で、そも
そも上記の成熟の定義を満たす機会に恵まれない。
(2) 流通システムが要請する不定冠詞付きの人間
自己調整的市場の流通・販売においては売り手も買い手も無顔貌の個人とし
て扱われなければならない。人間が社会の中において、人間的つながりをも
つ親しい他者や、様々な異なる社会的位置に立つ疎遠な他者との関係におい
て自己を定義してゆくとすれば、人間的つながりに乏しく、疎遠な他者とい
えば売り手と買い手の区別くらいしか存在しない自己調整的市場において、
我々にとって不定冠詞付きの人間というイメージに解消しきれない個人的深
みを形成する余地が少ない。
(3) 生産要素市場が要請するフィギュアとしての人間
自己調整的市場では結局のところ人間とは生産要素でしかなく、個性を隠蔽
する画一的な制服と、人間味を消去する奇妙なイントネーションとを纏って
店頭に立ち、フィギュアのような微笑みを浮かべるような存在であるよう要
請されている。ここでは人間関係なるものは存在しない。あるのはフィギュ
アとフィギュアの関係、物と物の関係である。
(4) 社会変化が要請する可塑性ある存在としての人間
パソコンの普及に象徴されるように、またポランニーが予言したように、利
得を追求する自己調整的市場は急速に社会を変貌させてゆく。そこでは生産
要素としての人間も、新しい生産様式に合わせて次々とその性質を変えてい
かねばならない。その対応ができない者は生産要素として役に立たず、家計
の負担となる。古くは成熟した大人と捉えられたはずの人々が、ここでは消
費され尽くした労働力の残骸として捉えられる。
人間の人間としての精神の成熟が拒否されたとき、幸福は最もプリミティブ
なレベルに退行するか、定義不能のまま不問に付される。その行き着くとこ
ろが、恐らくは快適性であり、今は何が快適か分からなくとも、いつでも快
適性を贖いうる保証としての貨幣の蓄積である。公開的・個人的価値志向の
消費資本主義社会に生きる人々は、「これがあったら快適ではないか」と思
う財に出会ったときに消費を行う。そのような財は「趣味が良い」「この財
に詳しい」と考えられるマーケット・リーダーが呈示する。人々は快適な消
費が見あたらない間は消費を手控え、マーケット・リーダーが現れると、
ドッとそちらになびくという、痙攣的消費活動を繰り広げるだろう。