20世紀半ばの世界を、ポランニーは自己調整的市場による社会の解体と、
それに対する社会の抵抗の歴史と見る。彼の筆致には不明確ながら黙示録
的な響きがある。第二次世界大戦を指す「世界的激動の一端」という言葉
には、これ以降の世界が激動の時代に突入するという考えが暗示されてい
るようである。
しかし我々が生きる現代の状況を考えると、この筆致はやや大仰な印象を
受ける。確かに世界は環境破壊の危機に瀕しており、第二次世界大戦から
その後にかけていくつもの国家が幾度もの体制転換を経験し、多くの動植
物が環境破壊の中で絶滅し、多くの人々が社会的混乱の犠牲となり、冷戦
がようやく終結したかと思えば地域紛争は堪えず、技術発達によって戦争
の姿が日々変わってゆくかと思えば、新たなテロリズムが一夜にして世界
を変えてしまう。科学技術の進歩に我々の価値観は追いついていけず、新
しい産業構造の影で不況にあえぐ人々がいる。しかし、それにも関わらず
ポランニーの描いた黙示録の世紀に生きているにしては、コンビニで買っ
たアイスを舐めながら友人と猛暑の話をする我々の日常は、あまりに暢気
すぎる。
ポランニーの綿密・多角的な経済史研究、生産要素市場とその意味への着
目、変化そのものに加えて変化の速度に着目するその発想は極めて示唆的
ではあるが、我々はこの50年前に書かれた壮大な歴史絵巻に修正を加えね
ばならないように思う。
ポランニーは「悪魔のひき臼」というメタファーを用いる。恐らくこの語
にこそ、彼の(どうやら誤りであったらしい)黙示録的未来観の原因が潜
んでいる。彼にとって自己調整的市場は、最終的に禍々しいものでしかな
かったのだ。
しかし「悪魔のひき臼」が社会を併呑したのは、ひとえに社会がそれを望
んだからに他ならない。ポランニーが「悪魔のひき臼」の全てを破壊する
鉄の顎と考えたものは、我々が望んだ理想郷に他ならない。確かに一時期、
自由主義的市場経済・資本主義は共産主義の挑戦を受けはした。しかし結
局、現代の宮殿であり聖堂である小売店に溢れる財貨は大多数の中産階級
市民を「悪魔のひき臼」へと誘惑することに成功したのである。日本の地
方に生まれた若者達は郷里の社会を自己調整的市場の解体作用に預け、東
京という、まさに「悪魔のひき臼」の名に相応しい空間に自らの身を投げ
込んだ。そこで如何なる矛盾を感じようと、彼らはそこでより多くの利得
とより多くの貨幣を求めている。
ここからの考察は現代日本を題材に進めよう。まずは松原隆一郎著『消費
資本主義のゆくえ』を要約する。