1.カール・ポランニー『大転換』要約

本書は自己調整的市場の形成過程・自己調整的市場という思想の形成過程を
検証しつつ新古典派(正統派)経済学を批判し、その論の延長上で第一次大
戦から第二次大戦にかけての時期を分析している。その紙幅の大半は文化人
類学・歴史学の知見や過去の資料を大量に引用しての事実検証に充てられて
いる。

(1) 自己調整的市場前史
ポランニーは文化人類学の知見を援用し、正統派経済学の自己調整的市場観
など幻想であると説く。すなわちそのような制度は19世紀以降に成立したご
く特殊なものであり、それが人間の自然な傾向から必然的に生じるものなど
ではないし、その依って立つ原理があらゆる時代に普遍的に当てはまるとい
うものでもない。

文化人類学の対象である、いわゆる「未開社会」と呼ばれるような社会から、
古代ギリシャ・ローマ、あるいは18世紀に至るまでのヨーロッパ社会におい
ても、その経済活動は正統派経済学が描くような図式とはまったく異なる形
で営まれていた。すなわち経済学は人間というものが、そもそも効用を最大
化する(利潤・利得を最大化する、より多くの財を消費しようとする)ため
に合理的に行動し、分業によってもたらされる生産力の向上のために、自ら
進んで交易を行うものだとされるが、実際には利得の最大化も交易も、ごく
特殊な経済活動の姿である。そもそも人々が経済活動を行うに当たって従う
行動原則(経済原理)は、それに対応する社会制度の在り方(制度的パター
ン)を前提として成立するが、歴史上の大半の人類社会は (1)互恵−対称性
(2) 再分配−中心性 (3)家政−自給自足 という三つの経済原理−制度的パ
ターンから成っていた。特に(3)はある程度生産力が向上してから現れるも
の(経済はそもそも閉鎖系ではなく開放系において為される)であって、
(1)と(2)が多くの人類社会の経済活動の原理であった。
これらの経済原理(家政も含む)は、現在我々が属している第四の経済原
理−制度的パターン、すなわち交易−市場と比較すると、常にそれらが社会
に埋め込まれた補助的制度である点に顕著な違いがある。すなわちムラの農
産物・狩猟の成果を一手に集めてムラの構成員に再分配する者は、同時に政
治指導者であり祭礼の主催者であり軍事指揮官でもあり、互恵は常に一定の
パートナーとの間で行われ、その両者の人間関係を維持することに経済活動
は従属していたりした。これらの経済活動においては、人々は社会関係の維
持を優先して、決して最大効率の利得を目指したりはしない。すなわちこれ
らの経済活動は既に述べたように補助的なものであり、彼らの生存はむしろ
村落社会に帰属できるかどうかにかかっていたため、そこで吝嗇であるとか
不公平であるとかいう評判につながる利殖は危険な振る舞いであり、寛容で
気前の良い振る舞いによって得られる名声は、財貨の蓄積で得られるものよ
り価値があった。交渉したり値切ったりといった行為を含む、交易と呼びう
るものが行われていたとしても、それは多く非日常品の入手のみに限られた、
他の経済原理に対して補助的な位置に留まり、多くの制約がかけられたもの
であった。それはしばしば山賊行為・海賊行為に似たものであり、A・スミ
スが述べるような平和をもたらすようなものでは、全くなかった。
逆に述べれば、交易−市場という19世紀に本格的に成立した特異な制度は、
他の社会制度から独立して、むしろ他の社会制度を併呑し、その経済原理に
従属させようとする点で極めて特異な経済原理であり、その進展の中で初め
て人々は利得の最大化に励むことが認められ、それが経済全体の生産力を高
める好ましいものであるとの言説が形成された。
利得最大化を目指す諸経済主体の競争を含む経済活動は重商主義時代、国内
市場に現れた。それまで局地的市場は、その地域内の社会制度に従属する形
で、様々な習慣・規制による保護的束縛を受けたものであった。また遠隔地
貿易は互いに自地域では産しない稀少品としての他地域の産品を入手するた
めの、前自己調整的市場における交易そのものであった。しかし重商主義者
は国内規模での市場の形成が国家の富を増やすとの立場から、国内を多くの
局地的市場に分割していた制約の解除に取りかかった。それでも彼らは完全
に野放図な国内市場の放任は独占と競争という危険を産む可能性があると考
え、その制御を試みた。後々まで強い規制がかけられたのは、生産要素の内
でも土地と労働力である。ここでは未だ競争より制御がその原理であった。

しかし大規模設備を運営しての大規模生産は、その設備投資を確実に回収
するために、確実に必要なだけの生産要素を確保できる必要がある。市場
が機械を導入して飛躍的に生産力を伸ばしたとき、土地(自然)と労働力
(人間)を供給する市場の不在は、社会にとってかえって破壊的な影響を
与えた。

こうして18世紀末、自己調整的市場への180度の転換が図られた。労働
(人間)と土地(自然)(この両者を併せてポランニーは社会の実体と呼
ぶ)と貨幣(以上三つを併せてポランニーは本源的生産要素と呼ぶ)が市
場で商品として取り引きされるようになった。しかし注意すべきは、実は
これらは通常の市場で取り引きされる財とは異なり、販売されるために生
み出されるものではなく、よって本来商品とは呼び得ない、擬制的商品で
あるということである。人間とは労働市場の商品である以前に人間生活を
営むものであり、自然も人間によって経済活動に転用される以前から、既
に独自のシステムを形成している。貨幣は国家の財政・金融活動から信用
に基づいて生み出されるものである。
市場経済とは市場のみによって統制され、規制され、方向付けられる経済
システムである。財の生産と分配の秩序はこの自己調整的なメカニズムに
委ねられ、人間は貨幣利得の最大化を達成しようとして行動する。そのな
かで社会の実体は経済原理に従わされる形で変革され解体される。人間と
自然は自己調整的市場という悪魔のひき臼に引き込まれてゆく過程で、散
発的な抵抗を見せる。この市場に向かう流れと抵抗する動きとの二重運動
が19世紀を、そして20世紀前半を形作った。

(2) 自己調整的市場とその崩壊
ポランニーは19世紀から20世紀前半にかけての国際システムについて、
既存の理解に対する異議申し立てを行う。
自己調整的市場が確立された19世紀には、また100年にわたる平和が実現
され、ポランニーはこれを評価する。この平和は19世紀前半にはバランス・
オブ・パワーシステム(この制度自体は三つ以上の関係諸権力体が対等な
武力を有することで、恒常的な戦闘の可能性(時には実際の戦闘)を前提
としてあるバランスを維持する、決して平和を保証するものではない制度
である)を各国王侯貴族の血縁関係と国際的教会組織の働きによって保証
され、19世紀後半には王侯貴族と教会に代わって金本位制がバランス・オ
ブ・パワーシステムを支えることで保証されていた。ポランニーによれば
「19世紀文明」は四つの制度の上に成り立っていた。すなわち (1)19世紀
に確立された自己調整的市場、(2)自己調整的市場が要請した自由主義的国
家、(3)国内の自己調整的市場を国際的に拡大するシステムである金本位制、
(4)金本位制によって支えられるバランス・オブ・パワーである。自己調
整的市場において国力を高めるには経済的な自由主義がとられる必要があ
り、国際的金融資本の信用を勝ち取るには政治制度が立憲的・自由主義的・
民主的である必要があった。また金本位制下での国際的金融資本は自己の
保有する如何なる通貨もその価値を大幅に減ずることを嫌い、各国は彼ら
金融資本の信用を繋ぎとめるために為替相場に気を配らざるを得ず、それ
があらゆる情勢の安定を要求した。
しかし、これらの制度の根本にある自己調整的市場とは、結局のところ新
古典派経済学の主張するような人間の自然的性向の必然的帰結などではな
く、生産要素市場は社会の実体を市場で取り引きされる財へと完全に解体
することには成功していなかった。社会は二重運動の中でときに自己調整
的市場に抵抗し、それが19世紀文明の四大制度の根幹に位置する自己調整
的市場の足を挫いた。19世紀末ドイツの興隆と植民地での対立の激化、各
国の保護主義への転換が国際的規模での自己調整的市場崩壊を惹起し、列
強が三国同盟と三国協商に二分されたことでバランス・オブ・パワーも崩
壊、第一次大戦下で国際金本位制度も停止された。第一次大戦後にバラン
ス・オブ・パワーと国際金本位制度の再建が目指されたが、前者はドイツ
の武装解除により出端を挫かれ、後者も30年代には相継ぐ通貨危機のなか
で最終的に崩壊した。金本位制の崩壊が決定打となり、経済的結合が分断
され保護主義的経済システム(分断されている以上、それはシステムとは
呼べないかも知れない)の再来を許した。この際、自由貿易と金本位制の
維持のために膨大な努力が為されたが、その努力の内容は、そもそも自由
貿易と金本位制の維持を要求する新古典派経済学と本質的に衝突するもの
であった。新古典派経済学の主張の誤りはここでも曝露される。