*1) この発展図式が果たして適切なものであるかどうかについては疑問の余地が
あるが、一応先学期のレポートで根拠となる考え方を示した。すなわち客観現実
の実在を保留する根拠については「論理的真である命題があるとして、なぜそれ
が真だと言えるのか、改めて考えるとまったく説明できない」という哲学のアポ
リア、根元的な不可思議さを提示して「ましてや客観現実が存在するかどうかな
ど、どうして確信をもって言えようか」という形で根拠付けした。また「事物=
個物」より「事物=現象」が妥当性を持つ根拠は以下のように記した。
 現実においては、あるモノが事象の中に組み込まれずに存在することは有り得
ない。あるモノが「在る」時点で、それは「存在する」という述語を纏った状態
で、既にひとつの事象として存在している。あるモノが述語抜きで存在しうるの
は、我々の思考の中においてのみである。因果関係が現実の関係である限り、因
と果はそれぞれ主語のみでは存在し得ず、必ず述語を纏った事象の形でのみ存在
しうる(先学期は「現象」ではなく「事象」という語を用いているが、意味する
ところは同じである)
 「事物=現象」より「事物=連続体」が妥当であると考える理由は以下の通り
である。
 因果関係は無限に辿れる上、無限に分割可能であり、究極まで細分したとき、
現実とは滔々と流れる川の水の如く、名付け難い連続体として現れるだろう。

*2) この主張は必ずしも熟慮を経たものではない事を白状せねばなるまい。
(Web掲載時追記:熟慮を経ていないとまで卑下することはあるまい。先学期
までのレポートである程度は論じてきたことである。かいつまんで記せば、同
名因果説は因果関係を事物間の性質の継承関係であると主張せねばならなかっ
た。事物に内属する性質、いわば事物の内側に着目せねばならなかったのは、
事物の内側しか見ていなかったからに他ならないだろう。事物の外側にあって
事物を包んでいる現象に目が行っていなかったのだ。「客観現実の存在を前提
と」している、という主張に関しては、確かにあまり検討しなかったが、こち
らについては改めて検討する理由が感じられなかった)

*3) 「事物=個物」観と「事物=現象」観の対比は、中世博物学/ニュートン
物理学の対比と対応する。
 なお先学期は「中世博物学」ではなく「キリスト教博物学」と呼んだが、こ
の違いにあまり深い意味はなく、「キリスト教博物学」という語を用いること
の不適切性を指摘されそうな気がしたので、もう少し癖のない語に置き換えた
つもりである。
 そもそもこの語が登場したのは、「同名因果説」という思想が古い自然誌の
思想と親和的で、現在の科学体系とは相容れないのではないかという直感があっ
たためである。この「古い自然誌の思想」というイメージを表現できれば、
「キリスト教博物学」でも「中世博物学」でも構わない。

*4) もっとも、リンゴを見て万有引力の法則に気付いたというのは後世の創作
だそうであるが。

*5) 講義で「ヒュームは視覚主義だと指摘されることがある」と一言だけ紹介さ
れた記憶がある。以下の考察は、それをひとつのヒントとして展開されている。

*6) カギ括弧がついているのは、この「本質主義」なる用語が哲学用語として正し
く使えているかどうか自信がないために、思わず「ここでは仮に本質主義と名付
けます」といったニュアンスを付け加えてしまったものである。

*7) 個物が印象の束に解体された時点で、「個物と個物の因果関係」は「個物を
構成していた諸性質中のある一性質と、他の一性質との関係」へと議論がずれる。
このずれで何らかの問題が生じないか、本来であれば考える必要があるのだが、
今回は手が回らず割愛した。

*8) 自由意志の実在を主張するなら、その自由を行使する主体としての「我」は
他者から明確に弁別される、それ以上分解し得ないものとして取り出されなけれ
ばならなず、よどみなく変転し続ける連続体から独立しうる。しかし、本レポー
トは自由意志不在・決定論の立場をとっている。自由意志など存在しないと考え
る理由については先学期○○教官に提出したレポートで論じた。

*9) この主題は以前××教官・△△教官に提出したレポートで論じた。それに
よれば人間を主体であると妄想することは近代の大前提であり、また近代が孕む
病の原因でもある。××レポート・△△レポートは今回は敢えて添付しなかった。