さて、本レポートは事物を「連続体」として捉える立場こそが最も
妥当な立場であると考えている。この考え方を採用するとき、「因果
関係」という概念自体が崩壊する。「原因」も「結果」も無く、そこ
に在るのは、ただ自然法則に従いよどみなく変化し続ける世界ばかり
である。(*8)
しかし、この考え方を取ることには二つの困難がある。一つは我々
個々人の問題。もう一つは社会の問題である。
(1) 個人の問題
我々は言語を用いて思考を組み立てる。言語を用いた時点で、すで
に我々は世界を分割している。すなわち世界を連続体として捉える因
果論とは、何も考えられない因果論、我々には理解不能な因果論なの
ではないか。
恐らくこの批判は回避することが出来ない。仮に世界が連続体だと
しても、我々が考察しうるのは、その連続体の一部と、別な一部との
関係でしかない。人間は恣意的に、あるいは慣習的に、世界という連
続体を分節することで言語を産み出し考察を始める。従って「現実と
は連続体であるから、概念に依拠した思考は現実を必ず幾ばくか歪ん
だ形で捉えてしまう」という批判、「従って我々は世界を連続体とし
て捉えるべきである」という規範は、絶対に活かされることのない批
判であり、達成されることのない規範である。世界を連続体として捉
えようとする試みは、恐らくたどり着けない場所へと接近を試みる終
わりのない過程となるだろう。
(2) 社会の問題
我々の社会は自由意志を前提として組織されている。個人とは不可
分の統合的実体であり、自由意志をもって行動し、その行動の責任を
負う。ある人が自由意志に基づいて行動してある結果が出されたとき、
その結果と対応する原因は決してこの人物=行動主体以前・以下には
遡及しない。たとえば暑い夏の日にAがBを殺したとき、この事件は
決して「太陽が暑かったせいでAはBを殺した」とは言われないし、
「Aの脳内のある核が興奮したから」とも言われない。端的に「Aが
殺したのだ」という事になり、Aという人物全体が罪に問われる。
しかし、少し考えれば明らかなように、このAへの照準には根拠が
ない。もしAの脳の傾向として犯罪行為を軽々しく行ってしまうよう
な癖があり、かつこの癖を完全に排除する外科的手術か投薬方法が開
発され実施されたとしよう。こうなったら、もはやAの殺人はAとい
う人物の罪ではなく、Aの中に巣くった病魔のなせる業である。この
医学的処置の物語には、殺人事件の原因を人間の一部に帰する思考が
見受けられる。同じ出来事でも、視点の違いで分節の仕方も変わって
しまう。このような恣意的な分節が、「法」と呼ばれる極めて重要な
体系(しばしば人間の運命を決める)の構築にあたり、前提とされて
いることが問題である。
しかし、このような恣意的分節を前提としない法制度、「現実とは
連続体である」という思想に基づく法制度を、再編する可能性が、果
たしてどれほどあるだろうか。現実的ではない、というのが答えとな
ろう。基本的に、人間は時間を初めとする資源を無限にもっているわ
けではなく、従って因果関係を遡及することも、あまり深く行うこと
はできない。また人間を統合的実体・主体と捉えることは近代の大前
提であり(*9)これを否定して法制度を再設計することは、近代を完
全に解体することに他ならない。そのようなことが一朝一夕に実現す
るはずもない。ただし、この可能性を考察し、検討することは興味深
いことであると考えられる。