1,ヒュームの因果論

(1) ヒュームの「個物主義」
 まず先学期のレポートの主張を一部撤回し、ヒュームをもう一度位置づけ直
したい。

 先学期のレポートにおいて、私は「客観現実を括弧に入れる」というヒュー
ムの前提を「徹底的に論理に従うことの論理的帰結」であり、ニュートン物理
学の「運動方程式によって地上の事物から天上の惑星の運行までが悉く同一の
式によって記述される」という「単一の原理の全世界への貫徹を哲学に移植し
たのが、ヒュームの論理性の貫徹」であると述べた。ニュートン物理学とキリ
スト教博物学を対比し、ヒュームをニュートンの側に置いたのである。しかし
「客観現実との距離の取り方」および「事物の捉え方」という二つの尺度によっ
て捉え直すと、この構図は訂正せねばならないようである。そしてこの訂正に
よって、「無原因に生じるものを想像『可能』なので、性質の継承は不要」と
いうヒュームの奇妙な主張に、ある程度合理的な説明を与えられるであろう。
この奇妙さが説明できなかったが為に、先学期のレポートは「ヒュームの速断
ではなかったか」と歯切れの悪い批判をするに留まったのである。

 「客観現実との距離の取り方」および「事物の捉え方」という二つの尺度か
ら、「ヒュームの因果論」および「同名因果説」を位置づけたい。
 まず尺度についてであるが、「客観現実との距離の取り方」には三つの立場
がある。客観現実は実在すると考える立場、実在しないと考える立場、実在す
るかどうか検証できないので留保するという立場の三つである。また「事物の
捉え方」については、個物として捉える立場、現象として捉える立場、連続体
として捉える立場の三つを提起したい。
 本レポートでは、これらの立場は、ある発展図式に沿う形で配置されている。
すなわち「客観現実との距離の取り方」に関しては「実在観」→「反実在観」
→「留保」という図式であり、「事物の捉え方」に関しては「事物=個物」観
→「事物=現象」観→「事物=連続体」観 という図式である。(*1)
 さて「同名因果説」の位置づけは「客観現実実在観・事物=個物」である。
一方「ヒュームの因果論」の位置づけは「客観現実留保(反実在観?)・事物=
個物」である。
 その根拠を論じる。同名因果説が基本的に客観現実の存在を前提とする立場
であり、事物を個物として捉えている事は、改めて説明する必要はないであろ
う。(*2)対するヒュームの因果論は、印象のみを問題とする点で客観現実の
実在を前提としていないのは確かだが、実在を否定しているのか、それとも保
留しているのかは明かではない。ヒュームの論には客観現実の不在証明は無い
ようであるが、その割には客観現実の実在を否定する方向性を強く感じる。ま
たヒュームは客観現実の実在を肯定しない事の当然の帰結として客観現実にお
ける個物の実在も肯定はしなかったが、外部の客観現実から主観の内部へと退
行しただけで、「個物の印象」という「個物」と甚だ似通ったものを材料に論
を組み立てていると考えられる。
 つまり「同名因果説からヒュームの因果論へ」という経路は「客観現実実在・
事物=個物」から「客観現実不在(ないしは不問)・事物=個物」へ、という
軌跡と重なる。
 ではヒュームが客観現実の捉え方について同名因果論と袂を分かちながら、
事物の捉え方については同じレベルに留まったことで、如何なる影響が生じた
のか。(*3)ここで「事物=個物」観と「事物=現象」観の本質的な差異につ
いて考察する事で、ヒュームの因果論がこの差異を超えなかったことが何を意
味するのか、明かとなろう。すなわち「現象」とは事物が「世界内に在る・世
界に浸された」姿であり、世界を統べる法則が事物に浸透し内部化されている
ため、二つの事物はその内部に結合原理を持ちうる。それに対し「個物」とは
博物館に展示される標本の如く、事物が世界から切り離されて捉えられた姿で
あり、その内部にはそのもの自身の性質以外は見出し得ない。事物を現象と捉
えてこれを探究すれば、現象内部に組み込まれた世界をも探究の対象にくわえ
込むことになる。かくして「リンゴが落ちる」という現象はニュートンの視線
を万有引力の法則へと導く。(*4)一方、事物を個物として捉えている限り、
事物の性質はあくまでその事物固有の性質であって、事物の外部としての世界
は探究の射程に入りにくい。同名因果とは、おそらくこのような視点の中にお
いて因果関係を説明しようとしたときに辿り着く因果論なのではないだろうか。
すなわち世界を事物に積極的に浸透するものとして捉えず、ただの背景・場と
して等閑視すると、個物と個物の関係は世界を介在せず、直接的に取り結ばれ
なければならないことになる。しかし、この試みは無論、大きな困難にぶつか
る。そもそも「個物」という概念は、ある事物を他の事物・周囲の世界から切
り離す事で得られたものである。このとき「産出関係」という概念は便利であ
る。世界や他の事物を抜きにしても、ある事物から別な事物が生まれたのであ
れば、両者には何らかの関係が担保されていると言えよう。この「産出関係」
という便利な道具立てを使わずに、しかも「世界や他の事物を考えない」とい
う同じ前提を保った場合、解決不能な困難にぶつかる。すなわち世界や他の事
物を考えないという前提の上で、ある二つの事物が産出関係を持たないとする
と、この互いにどこから来たとも知れない二存在者が、両者を結合する「積極
的な、浸透する世界」も無しに、どうして関係を取り結べるというのか。一方
の来歴が他方であるなら、このような説明困難な事態には直面しないで済む。
 そして、この「事物=個物」観を前提とした上で客観現実を消去したのが、
ヒュームの因果論である。「事物=個物」観を前提とした時点で、既に「世界」
というものが事物間の関係において積極的な役割を果たし得なくなることで、
諸個物間の関係が貧弱になってしまうと既に述べた。しかし、同名因果論では
貧弱ながらも「産出関係」という形で担保されていた事物の関係が、ヒューム
の因果論においては、客観現実もろとも「実在するかどうか分からぬもの」に
なってしまう。最後の結びつきが断たれれば、諸事物はバラバラになり、如何
様にも結びつくようになるだろう。

(2) ヒュームの「視覚主義」(*5)
 さらにヒュームの論を詳細に分析するため、ここで「事物=個物」観のもつ
「本質主義」(*6)に目を向けたい。
 「事物=個物」観が事物を世界から切り離した見方であり、「事物=現象」
観が事物を世界に浸透された姿で捉える見方であると述べたが、この言い方は
二つの見方を平等に扱っていない。すなわち、この言い方では「事物」という
ものが、そもそも世界とは独立にあり、「事物=現象」観の方がこの独立者で
ある事物を後付け的に世界に浸したような図式に則っている。「事物=個物」
観を基本に据えているのである。
 では逆転するとどうなるか。事物とはそもそも世界に浸された「現象」とし
て在るのであって、「事物=個物」観こそは、事物の自然な有り様から特定の
部分を削ぎ落とし、「個物」という本質を取り出そうとする本質主義である、
と述べることができよう。
 この「本質主義」は「客観現実実在・事物=個物」観においてはさほど問題
とならない。何故なら事物の本質/周縁が比較的自明であるかのように思われ
るからである。しかし「客観現実不在(ないしは不問)・事物=個物」観にお
いては、「個物」が幻影である可能性が浮上し、「個物の存在」が担保出来な
くなる。これは理論構成に重大な影響を及ぼすはずである。なぜなら「客観現
実実在・事物=個物」観は、「事物の本質」と捉えた諸性質を、その事物の存
在と不可分のものとして、その事物の存在に結びつける。従って事物の存在が
担保できなくなり、すべては主観に現れる印象の束にすぎなくなったとき、
「事物の本質」は個々バラバラに主観に現れた「諸印象」でしかなくなる。炎
を見る場合を考えると、炎の存在が「熱い」「明るい」といった性質をその本
質として伴っているのではなく、炎など存在しないかも知れないが、ともかく
我々は熱さの印象を持っており、他方では明るさの印象を持っているに過ぎな
いのである。「本質」の名のもとに統合されていた諸性質は、個々バラバラに
「個物の諸印象」として我々の前に現れる。(*7)「炎という個物の本質は熱
さ、明るさ等である」という語り方ができなくなり、「炎の視覚的像の印象」
「炎の熱の印象」「炎の明るさの印象」などが語り得るのみとなる。
 すると玉葱の皮むき宜しく、「個物」という統合体は崩壊するはずである。
ところがヒュームの論においては、この統合体の崩壊がある点で止まっている。
ここでヒュームの「視覚主義」についても指摘しておこう。ヒュームの論にお
いて統合体の崩壊が止まっているのは、失われた「本質の中心」を「個物の視
覚的像の印象」に担保させたからであると考えられる。たとえばヒュームは
「冷たい炎」といった例を挙げるが、「氷のように見える炎」という例は挙げ
ない。ヒュームはなぜ、橙色の風にゆらめく冷たいものを「炎」という名辞で
呼び、透明で固い熱いものを「固く透明な炎」とは呼ばないのであろうか。お
そらくヒュームは、自分が例として提示する不可思議なものを何という名辞で
名指すかについて、そのものの視覚的像の印象によって決めているのである。
事物の存在が担保されず、ただ諸印象が個々バラバラに受容されるのみである
のなら、その諸性質のうち、どれがその事物の本質かなどという事は決められ
まい。にも関わらず、恐らくヒュームは視覚を「名辞を担うもの」として、そ
の事物の本質とは言わぬまでも、その中心として捉えている。

 つまりヒュームの因果論とは、客観現実の崩壊によって個物を諸印象へと解
体しつつ、視覚印象に個物の本質を担保させることで「個物」という概念自体
の崩壊は防いだ、という事物観・世界観の中で構築されたものである。そこで
は個物が印象の束に分解されているので、その中から選択された「視覚印象」
によって担われる「個物」と、視覚以外の印象との関係は担保されず、また客
観現実を否定した時点で産出関係によって因果関係を述べることも叶わず、か
くして「想像可能である」というだけの理由で「冷たい炎」が可能になり、因
果関係とは「主観における二印象間の恒常的随伴」以上のものではなくなる。

(3) 我々の見方
 さて、先学期のレポートにおいて、因果論に関するヒュームのコメントを
「速断ではないか」と述べたが、この違和感がなぜ生じたのかが、これで明か
となる。
 仮に客観現実が存在しない可能性があるにせよ、我々は昨日も一昨日もガス
コンロの炎が熱かったことを知っており、従って今日も、これからも、常に熱
いであろうと考えている。単に我々がそのように考えるだけではない。実際に、
ceteris paribus(他の条件が同じなら、何か特別な事情がない限り、という
意味の哲学用語)という条件の下で、常に炎は熱いのである。そして炎が本当
に在るかどうかが分からないにしても、炎の印象とは常に熱と切り離せないも
のであり、炎があることと、その周囲が熱せられることとの間には、何らかの
関係が見出しうると我々は考える。このとき、そこに我々が見出しうると考え
ているものは、個物と個物の結びつきというよりは、実は諸個物を浸す「世界」
なのである。ヒュームは「冷たい炎」が想像可能だと言うが、我々は「炎」と
いうものが、本来物質と酸素の急激な化合に伴って生起する現象であって、そ
れは周囲に熱エネルギーを発散するものであると知っている。その事を保証す
るのは、客観現実を統御する法則、ないしは主観が諸印象から帰結した、印象
と印象の間の法則的関係の事なのである。我々は、たとえば「自然法則と、あ
る一時点の状態が与えられれば、別のどの時点における状況も決定される」と
いった言説の中で、「諸事物は自然法則によって貫かれ、それに沿って事物は
経時変化する」というイメージを自明のものとして刷り込まれているために、
ヒュームが「冷たい炎が可能である」と語るとき「自然法則がある限り(ceteris
paribusという条件があるにせよ)炎は熱くなければ辻褄が合わないのではな
いか」と違和感を感じるようになってしまうのである。この違和感は恐らく、
事物をどのようなものとして見るかという見方のすれ違いによるものであると
考えられる。