Web掲載時注


*1)以下2段落について教官コメントが付されていた。曰く「主体の利益
という概念は、ミリカンなら、進化論的に捉え直して、もっと客観的な概
念として定式化しただろう。すなわち、主体の存在可能性、増殖可能性を
高めるものが利益である、というふうに」

しかし、私にも反論の余地がある。注2と合わせて論じる。

*2)明確な範囲は示されていないが、このあたりの「主体」に関する記述
について教官コメントが付されていた。曰く「主体はそれほど主観的なも
のではなく、もう少し客観的であろう。我々があるものを主体と考えるの
には、我々がその理由を明示しうるか否かにかかわらず、それなりの客観
的理由があるだろう」

注1、2に対する私の反論の要点は「私は教官が考えているより、もっと
根本的で破壊的な主張をしているのであり、主体はもはや存在者ではなく、
我々の主観に浮かぶ幻想に過ぎないのだ」ということだ。私の主張は「概
念」そのものの解体であり、従って主体などというものは構想されない。
「主体」「自由意志」「行為と理由」「原因と結果」これら全ては、それ
自体は「滔々と流れる川の水の如く、名付け難い連続体である」現実に対
して人間の論理思考が与えた解釈に過ぎない。従って私が「主体」「主体
の利益」と言うとき、それが意味するものは「人間が恣意的に措定した
『主体/主体の利益』という後付けの解釈」の事に過ぎない。我々の解釈
に任されているから、女性は「ぬいぐるみが可哀想」などと言ったりする
し、「主体の利益」は解釈者毎に変わり得て、進化論的な定義はできない。
このような概念そのものの解体により、因果論・行為論等の論の体系を組
み直さんとするものである。

*3)この一文(日本語の文にしては長すぎて恐縮である)に教官コメント
が付されていた。曰く「自己ないし主体は自己概念をもつ必要はないので
はないか。ウサギやウズラなども主体でありうるとすれば、そうである」

私の論は、基本的にウサギやウズラが主体であるとは認めない。(という
か人間すら主体であるとは認めない)が、人間が「統合的な主体」の幻影
を投影するとき、ウサギだろうがウズラだろうがウナギだろうが、あるい
は縫いぐるみ、玩具の類さえ、主体と解釈されうる。(主体であると解釈
されるだけであって、主体なのではない。主体は幻想である)
人間の論理的思考が「自己」なるものを認識した点に、この「主体」とい
う幻想の生まれる契機が存在した、というのが本論の要点である。論理的
思考が世界を概念で分節した点にこそ「主体」誕生の契機がある、という
のが私の主張なので、言語以前の動植物には主体を構想する能力はない。
言語と概念を操る解釈者の存在を前提としての、主体である。

主体というものは客観的な存在者ではない。それは幻想なのだ。従って「主体の利益」を「進化論的に捉え直す」のはまずいし、主体か主体でないかの客観的判断基準など存在しない。