*1) ここではミリカンが出した例が一体なぜ目的を巡る二項対立に対する批判になる
のかを論理的に説明しようと試みたが、ミリカン自身、これらの事例をあまり論理的
でない形で持ちだしたのかも知れない。

*2) フロイトの理論が本当に無意識的クッキー摂取を「真の目的」に分類してくれる
かどうかは疑問である。フロイトもどの時期のフロイトかによって話が変わるであろ
うが、概して彼が問題にするのは意識以前の何か(前意識と無意識、ないしは超自我
とエス)であって、本人にも明確には意識されない根元的欲求(前期ではリビドーお
よびそれを支えるものとしての生への欲求、後期では前期の二者を包含するエロスと、
論が難解で理解しがたい「タナトス」となろうか)を人間行動の背後に見る。クッキー
摂取の背後にエロスを見出したとして、それが目薬を差してもらおうとする「真の目
的」と同じ物か。サブパーソナル、あるいはスーパーパーソナルな目的になってしま
うのではないか。

*3) 恐らく既に提示した例が根拠という事なのであろう。改めてまとまった根拠を示
すという事はしていない。

*4) この紹介が論全体の中で如何なる意味を持つのか、よく分からない。大勢を占め
る意見だから引用しただけなのか。

*5) この主張の根拠として、ミリカンは交通法規などの実例を挙げる。これが仮に
「競争を前提とした論は、ゲーム理論や自然淘汰などの理論に引きずられている面が
ある」という指摘だとすれば、うなずける部分もあるのではないか。ゲーム理論や自
然淘汰モデルを用いて社会における人間の行動を説明するというのは、いかにも魅力
的な考えであるが、人間の複雑な社会を、必ずこれだけで説明しきれるという保証は
どこにもない。魅力に引きずられて「とんでも進化論」を振り回す手合いには、動物
行動学者も頭を悩ませているらしい。

*6) 「機能Aが目的B,Cと異なるレベルにある」という表現は、文学表現じみた、
論理構造を為さないものになっているようである。「機能」と「目的」とはそもそも
まったく異なる次元の概念であって、それが「同じレベルにある」とか「違うレベル
にある」とか言うのは何を意味するのか。「目的Aが目的B,Cと異なるレベルにあ
る」というのなら分かるが、あるいは「言語の機能」が「言語の目的」と近い意味を
持つのか。

*7) そもそも哲学の問を日常語の検討から始めることの是非を問わねばならないので
はあるまいか。日常の言語使用を論のヒントにするのはよいが、どこかで日常言語が
持つ歪みを乗り越える過程が必要ではないか。

*8) ミームはどうなのだ、と疑義が呈されそうなところである。ミームは、それを
担う存在者を単位として考える限り、この論に従う。たとえばあるファッションが
流行するとき、そのファッションを模倣することが生存競争上何らの利益をもたら
さなければ「このミームは担い手の生存能力を高めないのに伝播した」とパラドク
スのように言われるであろうが、それは「担い手」すなわち主体を、ある遺伝子、
ないしはある遺伝子を持って生存機会・生殖機会の拡大を第一義的に追求する者と
して構想しているから、何かパラドクシカルな物を見るような気がしてくるのであ
る。そのミームの担い手の数(≒そのミームの担い手の存続可能性)に注目すれば、
そのファッションが模倣され、そのミームを担う者が増加している以上は、このミー
ムは(血縁を問わず、そのミームを担うことによって識別される存在者一般の)存
続可能性に資するのである。
 ミームが非常に特殊なように感じられるのは、遺伝子(あるいは共通の遺伝子を
持つことによって結ばれる個体集団)を主体と考え、その増殖様式である生殖を標
準と捉えるためであって、ある物質的存在者に属し、かつ伝播能力を持つ、と要約
すれば、さほど特異的でもない。
 ミームと遺伝形質は、この二つの特徴を持つものの例であるが、他にもたとえば
「燃焼している」という性質などは、この二つの特徴を備えている。ただしミーム
は炎と違って物質的に接触せずとも伝播する点、その性質を担う物質的存在者をそ
こまで劇的には消耗してしまわない点、それを担う物質的存在者がしばしば進んで
その性質を受容する点などにおいて「燃焼している」という性質とは大いに伝播力
が異なってくるが。