2.自由意志論

私は自由意志の存在を否定する。自由意志を担保したいという欲求が
多くの人にあり、それが多くの自由意志擁護論として現れるのは無理
からぬ事であるが、どうも天動説を擁護しようとして必死になる神学
者と重なって見える。

自由意志を担保するには、以下のことが満たされねばならない。すな
わち、まず「自己」という概念が他から独立して存在すること。そし
て、その「自己」が他者の決定を排除して何事かを決定する能力を持
つことである。しかし、自己なる概念を我々は明確に設定できていな
い。たとえば我々は我々自身の身体を自己の範疇内に含めることがあ
るが、その身体が体調不良のため鬱ぎがちになり、ついいつもなら断
らない誘いを断ってしまった場合を考えると、身体が自己の範疇内に
あれば、これは自由な決断である。しかし「体が言うことを聞かない」
という言葉は、身体を自己の範疇外において、自由意志は妨害されて
いるとする捉え方の存在を示唆しているのではないか。また、腸内細
菌のバランスが悪いために腹痛を起こした場合を考えれば、我々とは
別種の生物が我々の肉体と同様に我々の決定に影響を与えることが分
かろうし、我々の精神内部にも、既述の肉体と同様、自我の範疇に含
めて良いかどうか、悩ましい存在者が立ち現れる。何かしらの点で自
由意志と対立するように感じられる要素を自己の範疇から排除していっ
たら、最終的にはタマネギの皮むきの如き事態に直面するであろうし、
そのようにして辿り着いた核のみを自己として認めれば、大概の犯罪
は不起訴処分になってしまうであろう。そもそも我々の肉体・精神は
常に多くの物質を摂取・排泄し、また多くの情報を受容・出力する開
放系であり、そこに他から厳密に峻別される自己の境界面を設定する
ことはできない。他者から影響を受けることは自己の本質である。
また、「自己」が他者の決定を排除して何事かを決定する能力を持つ
かどうかという問題だが、ここで「自己」の最大のライバルは、無論
自然法則である。我々の「自由意志に基づく決定」なるものが我々の
脳の機能だとしたら、脳を構成する全ての自然物質は自然法則に従っ
ているはずであり、従って我々の意志も自然法則の統制下にあると見
るのが自然ではないか。量子論的不確定性を自由意志の根拠とする立
場は滑稽である。我々は自由意志に基づく決断を下したと思ったとき、
電子の位置をいじった覚えなどない。量子論的不確定性が人間の行為
を決めているとすれば、それは人間の行為が全て偶然によって生起し
ていると考えるのに似ている。自由意志の擁護どころではなく、自由
意志論者にとっては古典物理学的決定論よりひどい悪夢である。
あるいは、人間の自己とは物質を超えたもの──たとえば魂──であ
るとして自然法則から逃れようとする人があるかも知れない。しかし、
これも本質的な解決ではない。「物質を超えた自己」なるものが自然
法則には従わないとして、何か別の法則に従っていなければ、これは
量子論の悪夢と同じ事になってしまう。すると、それが如何なる法則
に従っているにしろ、その法則を他者と捉えた瞬間、「物質を超えた
自己」の自由な決定能力は、新たな法則の支配下におかれてしまう。
講義終盤に示された、自由意志という考え方には本質的に二律背反が
含まれるのではないか、という考えは、おそらく正しい。結局、他者
の決定を排除して何事かを決定する能力とは、決定しないで決定する
という無理な注文なのである。

ここで論点を変えて、二つの方向から自由意志論について考えよう。
ひとつは概念と現実・人間の認識と物理現実という視点、もうひとつ
の視点は社会的必要という視点である。

自由意志という概念は、世界から分節され独立した自己の概念を前提
としていると既に述べた。しかし自由意志と行動の関係に限らず、全
ての因果概念は、原因と名指されるものと結果と名指されるものを世
界から分節し、独立した単位・要素として捉えねばならない点を、こ
こで改めて指摘したい。そして「自己」という概念が厳密には世界か
ら分節し得ないように、原因と名指されたり結果と名指されたりする
ものも、厳密には独立した要素として抽出することはできない。しか
し、我々は論理と言語によって世界を認識する習慣を持っているため、
たとえばアルコールランプの点火を見たときに、我々は火を近づけた
ことやランプに燃料が入っていたことを原因として指摘するが、物理
的に見ればアルコール分子と酸素分子の反応を原因と捉え、発熱を結
果と見ることも可能である。出来事を何と見て、原因と結果をそれぞ
れ何とするかは自由自在に決め得るのであり、現実はといえば、分節
できない連続性があるばかりである。要するに因果関係とは我々の精
神が現実世界に見出す関係性であり、我々の世界認識の在り方によっ
て制約された、決して現実をありのままに映してはいない概念なので
ある。現実にあるのは、滔々と流れる川の水の如く、名付け難い連続
体である。

しかし、ギリシャでは「原因」を表す語が、もともと罪に問うことを
表す語から生まれているという事実からも伺えるように、我々の社会
は因果関係と、行為の原因としての自由意志の存在を前提として形成
されている。また我々自身も、自分が自由意志を持つと考え行動する
のが適応的である。哲学的に自由意志を救おうという努力には、無理
があるように見える。しかし自由意志を拒否して日常を生きるという
事は、これはこれで無理があるようである。恐らく我々は自由意志の
不在に気付きつつ、敢えてそれを忘れて生きねばならないのではない
だろうか。そのような生き方と現実との齟齬に、時に遭遇することも
あるが、それはその時々に、できるだけ納得できる形で解決を与える
事になろう。恐らく、そもそも自由意志の存在を紛う事無き形で論証
し、それを前提に論を立てるなどと言う試みは怠慢なのであろう。我々
は常にきれいに片づかない問題に取り組んで行かねばならないのだ。