1.講義のまとめ

自由意思を巡る様々な議論は大体において、(1) 自由意思を認めるか
(2) 決定論を受け入れるか という二つの尺度から、四つに大別できる。
両者を否定する立場は、人間に自由意思など認めないが、かといってどの
ような行動をとるか決定されているとも考えない、いわば人間のあらゆる
行為はランダムに生起するといった考え方になる。前者を否定し後者を肯
定する立場は決定論という名が相応しい立場となり、人間の行為はすべて
決定されているといった類の「強い決定論」や、量子力学の不確定性原理
を参考に考案された、人間の行為も確率論的に不確定な要素が認め得ると
する「弱い決定論・確率論的決定論」などがある。
しかし、我々は人間の倫理性を問うために、また自己を自由な選択者と考
えるために、自由意思の存在を否定したくない。したがって自由意思論と
言えば、多くは自由意思を救おうとする試みであり、講義で扱ったテキス
トも自由意思を認める立場にはどんな議論があり、それはどんな反論に曝
されるか、という形で展開する。
四つの立場のうち、哲学において人気があるのは、両者とも認める両立主
義である。すなわち、物理学があらゆる物質の振る舞いを法則によって記
述せんとする今日、人間の行動だけは自然法則から独立しているとは考え
難いので、決定論を認めた上で、決定論から帰結される自由意思の否定を
回避することで自由を担保しようとするのである。

(1) 決定論に対する両立主義の挑戦
そもそも決定論とは「二つの可能世界において、自然法則とある一時点の
世界のあり方とが共に等しいならば、その二つの世界の在り方は全時点で
等しい」と定式化できる。論理記号を用いて記述すると以下の通りである。

 α:□p├Np(必然的に生じる事態は能力必然的にも生じると言える)
 β:N(p⊃q),Np├Nq(能力必然的に「pならばq」が真であり、
   かつ能力必然的にpが成り立つ時、qもまた能力必然的に成り立つ)

以上が能力必然性Nについて成り立つので、

 □ [(H&L)⊃A]
 □ [H⊃(L⊃A)]
 N [H⊃(L⊃A)]
 N (L⊃A)
 NA

以上より、ある過去の状態Hと自然法則Lが現在の行為Aを必然的に導く時、
Aは能力必然的事柄(必然ではないが、いかなる行為者もこれを覆す能力を
もたない点で必然に準ずる事柄)であると結論できる。(この論法を帰結論
法と称する)

この議論に修正を加えて自由意思を救うためには、論理記号の操作は正しい
ようなので、前提を修正する必要がある。どの前提を修正するかによってい
くつかの立場があるが、自然法則や過去の状態といった概念に修正を加える
のが「多重過去両立主義」と「局地奇跡両立主義」である。「我々には、そ
れを行っていれば過去/自然法則が違うものであったような行為を行う能力
がある」と定式化できる。これらの立場はいずれも途方もない事を言ってい
るように見えるが、我々は事実として自然法則を書き換えられる・過去の歴
史を塗り替えられると言っているのではなく、能力を問題にしている点に注
意すべきである。ある時A氏が右足から歩きだしたとして、彼は両足とも正
常な筋肉を持っていたので、左足から歩きだす能力も持っていた。ただし、
そうなるためには過去の歴史が/自然法則が多少異なっている必要があった、
という事である。
この立場の問題は、このような形で担保される自由が、果たして我々の自由
意志を担保していることになるのかという事である。そんな些細なことでは
なく、我々はある瞬間に火事の家に飛び込んで人を助けるかどうか選択し、
その選択によって1人の人の生死を決めるような、それほどの重要事につい
て自分の自由意志が発揮されていると考えたいのではないか。

そこで前提となる論理式を修正する。αは修正し難いと考えられるので、β
が対象となる。「Np(能力必然的にpである)」の解釈を「p かつ 如
何なる人間行為者も、それをしていたらpでなかったような事柄は遂行でき
ない」とする。すると、ある人間行為者は明白にpでなくなるような事柄は
遂行できないが、pでなくなるかもしれない事柄は遂行できる。たとえばp
が放っておいても達成されるかも知れないとき、積極的にpの達成に寄与す
るか、自然とpが達成されるに任せる(達成されないかも知れない)か、選
択の余地があることになる。すると以下のようなβに対する反例が示せる。

<前提>
(1) 行為者はa一人である。
(2) ここにラジウム塊bがある。aは「p:ある瞬間tにbが放射線を出さ
  ない」を成立させたい。
(3) bがある瞬間に放射線を出すかどうかは量子論的に不確定である。
(4) aがpを積極的に成立させる方法は「q:bを破壊する」ひとつしかない。

aは(2)よりNpであり、かつ(4)よりp⊃qに明確に反することはで
きない。すなわちN(p⊃q)である。しかしaは(1)よりqせずpが自然
に成立することを期待する自由もある。するとβは成り立たない。

しかし、この議論も我々の自由意志を担保していると言えるのか、疑問が残
る。また決定論の立場から、以下のような反論が可能である。すなわち「上
記のNpの解釈は不適である。Npは『p かつ 如何なる人間行為者も、
それをしていたらpでなかったかもしれないような事柄は遂行できない』と
すべきである」と。これだと前述の前提からaはpが放っておいても成立す
るかも知れないからと言って、qせず傍観することはできないということに
なる。

帰結主義を否定することは困難である。

(2) 両立主義の自由意志論とその困難
どのようなときに自由意志を認めるかについて、PAP(Principle of
Alternate Possibility)と呼ばれる理論がある。すなわち別様に行為し
得たときのみ、人は自由意志を認められ、賞罰の対象になる。この論法は
自然だが、以下のような反論が提起され、修正の必要性が唱えられた。す
なわち「aが悪事を行うのをbが観察している。aが考えを変える素振り
を見せたら、介入して悪事を遂行させるつもりで、実際そうし得る能力も
持っていた。aは結局bの手を患わせずに悪事を行った」このときaは別
様には行為し得なかったが、やはりaは罪を問われる。
講義で紹介された修正は、要するに欲求から行為へと至る心的機構がきち
んと働いていることを様々な方法で担保せんとするものだった。まず欲求
が行為の基礎にあることを求めるが、それでは二つの欲求が衝突したとき
行為は何に基づいて決定されているのかが分からないので欲求の上位に二
次欲求・決断といった要素を仮定し、それでも二次欲求・決断に迷いが混
入すると困るので、全霊性という事を言い出したりする。しかし、人間は
何処まで他者の影響を排除して自らの意志によって自己を決定できるか、
またある人の行動がどれほど自己に準拠していれば自由意志と責任能力が
認められるか、そもそも何をもって自己と規定するか、そうした問題が解
決されなければ、結局アドホックな修正に過ぎなくなってしまう。能力的
説明・理由応答性説などは、欲求と行為が「正しく」結びついていること
が確認されなければ、その人は正常な自らの自由意志に則って行為してい
るとは言えないという主張の厳密化であるが、これらも結局は、より根元
的な問題に答えられていないために、他者からの介入があったらどうなる
のか、という問題に直面してしまう。

(3) 非両立主義の自由意志論
以上の両立主義の立場に対し、自由意思を擁護するために決定論は認めな
いとするラディカルな立場も存在する。決定論的な因果関係に疑義を呈す
ることになるが、そもそも人間の行為に原因という概念を認めない「非因
果説」人間の行為の原因は非決定論的であるとする「非決定論的因果説」
人間行為の原因とは行為者以外では有り得ないとする「行為者因果説」の
三つの立場がある。
非因果説は、まず「基礎行為」という概念を定義する。基礎行為は因果関
係を含まず、端的に能動的に行為者の中に生じる。この基礎行為が因果に
囚われていない点で自由を担保している、という。行為は基礎行為に基づ
いて行われる。つまり基礎行為とは行為者の心の中の決断や欲求と似たよ
うなものになる。
この考えは基礎行為なるものがあまりに無根拠に降って湧いたことになっ
てしまうという困難を持つ。基礎行為は原因なく生じていなければならな
いが、それでは基礎行為は本当に行為者の自由になっているのか。行為者
の与り知らぬところで無根拠に降って湧いてしまっているのではないか。
そして人間の行為一般が無理由・理解不能なものになってしまう点でも無
理がある。
非決定論的因果説とは、ひとつの理由があったとき、その理由は行為と因
果関係を取り結んでいるが、その理由から如何なる行為が導かれるかは決
定されないとする立場である。決定されていないので、自由だ、という事
になるのだが、結局は非因果説と同様、行為が決定されるメカニズムを因
果論的安定性から切り離してしまったために、行為が本当に自由に基づい
ているのか、ある原因からある結果が無根拠・偶然に生じているだけでは
ないか、という反論が為されてしまう。「意志の努力」なる概念を持ちだ
して修正する試みも紹介されたが、本質的な解決ではないため、意志の努
力をなしたとしても、無根拠・偶然に生じた努力ではないかという同様の
反論に答えられない。
行為者因果説は行為者が原因となって行為という結果が生じるのであり、
これは事物間の因果関係とは異なる特殊な性格を持つと主張する。行為者
とは無原因の原因、不動の動者、純粋に働きかける者であり、行為者が行
為を引き起こすこと自体が自由意志を担保する行為の制御であるという。
これは禅問答宜しく、土台不可解である。自由意志論が問題としていたよ
うな事柄に答えを与えていない。

自由意志は自由に変更・選択できることと、自己によって事物を決定でき
ることをその内容とするが、そもそもこの二つは決定論に限らず対立して
しまうものなのではないか。だから自由意志論はどれも、どこかしら無理
があるように見えるのではないかという疑問が、講義終盤に示された。