経験主義の妥当性

 ヒュームは印象と観念について、「観念は印象から生じる」として
合理論に対する経験主義の勝利を宣言した。本レポートは主に心理学
や大脳生理学の知見を参照しつつ、印象と観念の概念を吟味する中で、
この経験主義の勝利宣言に疑義を呈する。

 ヒュームは『人間本性論』第1部・第7段落以下で、印象と観念の
間に因果関係が存在し、かつ印象が原因であり観念が結果であると結
論する。そこでは、第一に印象と観念の間には(特にそれが単純なも
のである場合)一般的に対応が見られ、何らかの因果関係があると考
えられること。第二に対応が見られる一対の印象と観念のうち、どち
らが先に精神に現れるかと言えば、必ず印象の方であること。この2
点より、観念は印象から生じると結論づける。
 印象と観念の間に因果関係が認められると前提するなら、印象が原
因であり観念が結果であるとする結論については敢えて疑問を挟まな
い。ここで疑問を呈するのは「印象と観念の関係は因果関係なのか」
という点である。すなわちヒュームは「印象と観念の間には必ず随伴
関係が見られるので、両者の間には因果関係がある」と主張するが、
もし両者の間に因果関係があれば、原因から結果が生じる仕組み・プ
ロセスがあるはずであり、仕組み・プロセスが存在するなら、それは
他の要因の関与によって破壊されうるのではないだろうか。すなわち、
印象と観念の間に何らかの因果関係があるなら、両者は必ず随伴する
と言うよりも、むしろ高い確率で随伴しながら、時に因果関係が破壊
されることで随伴関係が壊れることがあり得るのではないだろうか。
そのような事例が存在しないなら、それは両者の関係が因果関係とは
異なる関係であることを示唆していると考えられないだろうか。(今
回割愛したが、以上の議論は本来「因果関係」という語を定義したう
えで行わねばならない)
 では、因果関係以外にどのような関係があり得るのだろうか。2つ
の事象が高い確率で共起する場合のモデルとしては、例えば共通の原
因を持つ2つの結果といったパターンが考えられるが、このパターン
でも共起する2つの事象は、直接ではないにせよ因果関係によって結
ばれており、従って直接の因果関係で結ばれていると考えた場合と同
じ疑問に答えられない。ここでは「印象/観念」という概念が崩壊す
る可能性を示唆しておこう。

 いくつか具体的な「印象/観念」を検討する。例えば私の中に存在
する「○○先生(講義担当者の名前)」という観念は、シラバスで
「○○」という教官名を目にしたときの印象、第一回講義の前に評判
を聞いたときの印象、実際に目にした○○先生の印象から生じている
のは間違いないように思われる。これらの印象を私が受容することが
なかったら、私は因果論について講義をしていた○○先生という観念
を持つことは無かったであろう。しかし「自我」という観念について
は、自我を知覚し、その印象を持ち、そこから自我という観念を形成
するに至ったのか、私には自信がない。自分が自我の観念を形成した
瞬間を、あるいはそんな瞬間があったのかさえ、私は覚えていないし、
自我の観念を有する人と有さない人を比較し「自我」の印象と「自我」
の観念の因果関係を検証することも難しい。(我々にとって自我の観
念を有することは、正常な成人(この概念も問題を含むが)の条件と
考えられ、従って我々が正常な成人と考える範囲内で自我の観念を有
する人と有さない人の双方を見つけることは不可能であり、自我の観
念を喪失していると考えられる精神異常者や自我の観念を持つに至っ
ていないように見える幼児と自我の観念を有する成人を比較したとこ
ろで、その「自我観念」の有無が「自我印象」の有無と関係するかど
うか、両者の間に因果関係が存在するかどうか、他の要素が多すぎて
まったく分からない)よって自我印象と自我観念の間に因果関係が無
いとは確言できないが、因果関係ありと主張することも無理がある。
これが「空腹」の印象/観念などという生物により広く見られる要素
となると、事はさらに怪しくなってくる。新生児はすでに泣くことで
不快を訴え要求を行う術を身に付けており、その要求の中には母乳の
要求も含まれる。さて、新生児が生まれて始めて母乳を要求するため
に泣いたとき、その新生児はすでに空腹を知っている、すなわち空腹
の印象をもっていると、一応考えることは可能である。ここからすべ
ての成人が空腹の観念を持つのは、幼少時から繰り返し空腹の印象を
持っていたからである、と、結論づけることも可能なように思われる。
しかし、仮に幼少時から特別な授乳、摂食体制を整えて空腹の印象を
持たせないようにしたとき、さらに文字や伝聞のかたちで「空腹の印
象」を持つこともないようにしたとき、この子供は果たして空腹の観
念を持たずに育つのだろうか。この結論を得ることはできない。人道
的観点からこのような実験が行えないという事もあるが、このように
して育った子供ないしは大人が空腹の観念を持っているかどうか、ど
のようにして調べるのだろうか。空腹というものを知っているかと訊
ねても、空腹という印象を文字や伝聞のかたちでも持たないようにし
ている以上、語彙の問題で有意な回答は得られまい。また自然から切
り離され人間に育てられた動物が狩りの能力を持つかどうかを、実際
に狩りの状況を体験させて確かめるように、実際に空腹感を味わわせ
るような実験は行えない。空腹感を味わわせることは空腹の印象を与
える事であり、実験が成り立たなくなってしまう。

 特に三つ目の例が示唆的である。ここでは空腹の印象を持たない人
間を作る実験が行われたが、この被験者が空腹の概念を持っていない
かどうかを調べようとしたところ、非常な困難に直面することとなっ
てしまった。この被験者はけっきょく、空腹の観念を持っていたのか、
否か。空腹の印象を持つ者が空腹の観念も持つという事は、さほどの
違和感はない。しかし空腹の印象を持たない者が空腹の観念を持つか
どうかについては、どちらとも決めがたい。空腹ということを感じず、
考えてもいなかったのだから、その観念は持っていなかったのだと主
張することも、空腹の観念は生得的にあり、それが空腹時に始めて言
説の中に現れたのだ、と主張することも、どちらも可能に思える。
 ある他者についての認知も、自己の認知も、空腹という自己の状態
に関する認知も、決して大脳生理学的に明らかになっているとは言え
ない。しかし、これらが脳の異なる部位において営まれる情報処理で
はないかという考えは示されている。(前二者は大脳新皮質が大きく
関与するが、後一者は脳幹部の活動が大きく関与する)すると、この
三者をすべて「印象/観念」といった共通の形式の中で考察しうると
考えることも、些か根拠が薄いように思われる。ヒュームが「印象/
観念」という言葉で表現しようとした人間精神の全過程は大脳生理学
的にいくつかに分類せねばならず、一部では因果関係が成り立たない
可能性があるのではないだろうか。


 以上の検討から、ヒュームの経験主義に対して疑義を呈する。

 まず生じる疑問は、精神現象は知識獲得などの場合と、欲求などの
場合とでは違いが多すぎ、両者を「印象/観念」という共通の形式で
説明しようとすれば無視されてしまう要素が出て、不適切なのではな
いか、ということである。ヒュームの(経験主義の)精神観は、あた
かも舞台の如くである。そこに印象という役者が登場し、観念を呼び
出し、さらにいくつもの印象やいくつもの観念が互いを呼び合い、舞
台の上で関係を構築しては去ってゆく。思索や知識の獲得はこのモデ
ルとそう大きな齟齬はきたさないように思われるが、話が生物に一般
的な欲求の類に及ぶと、些か怪しくなってくる。そもそも「空腹を感
じる」とは何なのか。それは精神という舞台上に役者が登場し、腹が
減ったと叫ぶだけではない。同時に他の思考は抑制され、集中力は低
下し、更に精神という舞台を擁する身体全体が、食べ物はないか、と
探索行動を開始したりする。すなわち空腹の印象とは、同時に行動の
契機であり、精神というタブラ・ラサに新たに書き込まれた文字では
なく、既存のシナプス回路が興奮を伝達することではないのか。そし
て空腹という観念は空腹の印象と一見似ているが、空腹の印象が同時
に行動の契機でもあるのと比較すれば、単に「空腹の時どうなるか」
「空腹の人はどのようになるか」という知識でしかない。確かに空腹
の観念は空腹の印象を持った際に生じる諸事についての模像だ、その
差は少ないのだ、と言えるかも知れないが、その主張に如何なる意味
があるのか。空腹の印象は摂食の欲求であり、空腹の観念は単なる知
識に過ぎない。両者はまったく別なものであると考えた方が、よほど
現実と対応して意義深いのではないだろうか。

 以上の疑問点を是とし、精神現象の多様性を認めるなら、次には精
神現象の一部は生得的な神経機構なので、印象から生じてくるものと
考えるのは不適なのではないか、という疑問が生じる。生命発生のメ
カニズムと神経機構の働きが徐々に明らかになり始めている今日、こ
れは避け得ない疑問である。ヒュームの自我の存在すら疑う立場をと
れば、精神という舞台の他に生得的機構などという不可視の要素を仮
定することは好まないであろうが、精神現象を次々と現れる印象や観
念、あるいはそれと多少異なる欲求などの出現・消滅のみに限定する
(この限定は先に挙げた疑問点「精神現象はより多様なのではないか」
を是としたとしても、なお可能な限定である。すなわち精神の舞台に
登場するのは印象や観念のみではないが、それ以外のものも、結局は
精神という舞台上の役者の一人に過ぎず、身体の探索行動なども、行
動しているという印象、食べ物があるとか無いとかいう印象として精
神の舞台に現れるだけである、精神を擁する身体など存在するかどう
か分からない、と主張しうる)場合、無理が生じるように思われる。
すなわち、知識の獲得に関しても、ある観念を保有しているかどうか
を精神という舞台に現れているか否かで決めると、その観念を想起し
ていないとき、その観念を保持しているとは言えないのではないか、
と主張しうる。やはり舞台から退場した役者が次の出番まで控えてい
る舞台袖、すなわち「記憶」を仮定しなければならないだろう。しか
し精神(舞台)に現れるもの以外に、精神に現れていない部分を仮定
すると、その部分についてはブラックボックス化して様々な可能性が
生じてしまう。すなわち舞台袖に「記憶」という場があるとして、他
の場はないのか。舞台袖から現れる役者は、舞台上に印象の名で登場
し、後に舞台袖の「記憶」に入った者達だけなのか、どうか。人間の
誕生の時から楽屋に控えていて出番を待っている者達がいるかも知れ
ないことになる。この楽屋が「生得的機構」であると、主張できるの
ではないだろうか。


 本レポートが呈示するヒュームの論に関する疑問点は以上である。
本レポートが自我の存在をすら疑うヒュームに反論するに、身体の存
在を前提とする脳科学を援用してしまったことは、大きな傷として認
めざるを得ない。恐らく最新の科学を参考として、そこで得られる知
見をヒュームの如き徹底した懐疑主義の言葉に置き換える思索が必要
なのであろうが、そこまでを本レポートの中で行う時間も才能もない。
 なお、このレポートは経験主義の妥当性を疑い、大陸流の合理論を
肯定するものではない。大陸合理論が主張したような生得的な何かは、
確かに存在すると考える必要があるように思われる。しかし、その生
得的なるものが大陸合理論の述べたような、美しき理性であると主張
することも、21世紀に生きる我々にとっては相当に疑わしいことで
ある。いま我々に必要なのは、恐らく科学の成果を哲学の言語に翻訳
し、それを参考にしつつ大陸合理論とイギリス経験論の両者から学ぶ
ことである。極めてお粗末ながら、本レポートはその試みの一つとし
て、ヒュームの論を検討した。