「敢えて賢かれ」この言葉はもともとホラティウスが述べた言葉で、
カントの論文「啓蒙とは何か」の冒頭に、啓蒙の標語として紹介さ
れる。意味する所は、カントの紹介によれば、「お前は既に大人と
しての立派な判断力を持っているのだから、それを使うことを躊躇
するな、自分は賢いのだと考え、賢い人間として振舞え」といった
意味らしい。私はこの言葉に首肯できないものを感じる。人間は既
に賢いのだろうか? 私は人間の知性は不十分だと感じる。たとえ
ば現在パレスチナで起きている紛争は、今すぐにでも止めなければ
ならないほど悲惨なものであるが、我々にはそれをすぐに止められ
るほどの賢さはない。必要な知性と現実に我々がもっている知性の
相対的差分が、すなわち私の指摘する人間の愚かしさである。しか
し、私は別な意味で、「敢えて賢かれ――賢い人間として振舞え」
と呼びかける。自分が愚かな人間であることを認めるのは良いが、
そうした承認は同時に、自分が愚かであること、愚かであり続ける
ことを許す言い訳になることが多い。それよりは、自分は賢いのだ、
賢くあらねばならないのだと考え、かつそのように振る舞う方が良
い。もちろん、賢さが足りないために、繰り返し痛い目に遭うであ
ろう。それでいいのだ。それでこそ、自分の許し難い愚かしさを腹
の底から実感し、改善の努力ができるのだから。自分を賢いと思い
ながら、その賢さを試そうとしない者は独りよがりである。行動し
つつ自分を愚かだと認める者は、その愚かさを仕方ないものと諦め
がちで、一向に改善の努力をしない事が多い。自分を愚か者と呼ん
だ上で、その愚かさを試すような行動を何も起こさない者は、自分
が本当に愚かかどうか知る機会もなく、いつまでも愚かであり続け
る。だから、私は己の愚かしさを繰り返しさらけ出し、人々の嘲り
をその身に受けながら、敢えて己の愚かしさを隠さぬことを主張す
るのである。