※本論において私は決定論の立場をとる。
私がここで「既に悲劇を背負わされた者」というのは、つまり我々
が出会った時には、もう悲劇の主人公であるような、そういう他者
のことである。たとえば、火事のニュースを聞いた時、被害に遭っ
た○○市の△△さんは、貴方がニュースを見た時には、既に悲劇の
主人公である。世の中には無数の悲劇の主人公がいるが、そのうち、
貴方の目の前で悲劇に見舞われる者の人数など微々たるものである。
従って、悲劇の主人公は大概が「既に悲劇を背負わされた者」とし
て貴方の前に現れる。さて、「既に悲劇を背負わされた者」に対し
て、貴方はどういう態度をとるか。同情する、慰める、出来る限り
手助けする……まあ、それが人情というものであろう。しかし、そ
んなことの通用する相手ばかりではない。次に一筋縄では行かない
「既に悲劇を背負わされた者」について考えよう。貴方の知ってい
る人で、貴方を含め多くの人から憎まれている人物を思い描いても
らいたい。犯罪者かもしれない。犯罪的政策を行った国家元首など
は、多くの人の憎悪を買っているだろう。貴方の身近な知人にも、
なにかと嫌われる人がいるだろう。血縁者の中に、そんな人がいる
かもしれない。さて、いま貴方が思い描いたその人が、「一筋縄で
は行かない既に悲劇を背負わされた者」である。貴方は同情し、慰
め、出来る限り手助けするだろうか?彼は悪人だから悲劇の主人公
などではない、従って、同情も慰めも手助けも必要ない、と貴方は
言うかもしれないが、私はここで決定論を前提としており、決定論
を前提とする限り、その反論は的外れということになる。決定論に
よれば、事物は過去の状態と物理法則に従って、既にどう在るか決
定されている。もちろん、貴方がいう所の「悪人」についても、彼
が悪人になることは決定されていたことになる。彼は彼を取り巻く
既存の状況や、彼の脳の働きを決める物理法則を変更することはで
きないので、生まれた時かわいい赤ん坊だった彼の脳は、既存の状
況から予定された刺激を受け、悪人のそれへと育って行く。彼には
選択の余地などなかった、という事になる。選択の余地の無いこと
について罪を問われる、というのは、些か酷である。しかし彼が悪
人だから同情の余地なし、というのは、正に選択の余地の無いこと
について罪を問うている事に他ならない。決定論に基づけば、彼は
状況と物理法則によって「悪人」という名の嫌われ者になってしまっ
た被害者である。では、被害者に貴方はどんな態度を取るか。
この問いに答えを出していただく必要は無い。ただ、二つの事を考
えていただきたい。一つはこの手の「既に悲劇を背負わされた者」
をどう扱うべきかは、非常に難しい問題であるということ。もう一
つは、貴方の知っている「既に悲劇を背負わされた者」は、もしか
したら貴方かもしれない、という事である。前者についてだが、こ
の手の「既に悲劇を背負わされた者」を、実際の場で見てみれば、
いくら悲劇の主人公だからといって、容易に同情だの手助けだのは
できないと思い知るだろう。彼が皆から嫌われるのは、故なき事で
はない。例えば貴方は強姦殺人犯をどう見るか。彼を憎まないこと
は難しいし、仮に憎まないことができたとして、彼が悲劇から脱出
するために、どんな手助けができるというのだろうか。恐らく、彼
の変態的性癖ないしは致命的な対人関係能力の欠如を、何とかする
だけの能力も暇も、貴方は持ち合わせていないだろう。むしろ、こ
いつは悪人だと叫んで暴力的に排除する方が、よほど効率的かつ現
実的である。この結論の悲劇性について、よく考えていただきたい。
また後者についてだが、先述の強姦魔氏が「既に悲劇を背負わされ
た者」になったのは、彼の与り知らぬことである、と先ほど述べた。
同時に、貴方が彼のような「既に悲劇を背負わされた者」にならな
かった事も、貴方の与り知らぬことである。では、もしこの手の「既
に悲劇を背負わされた者」としての運命が貴方を捉えたら、どうな
るか考えていただきたい。もちろん貴方には抵抗する余地は無い。
誰でもよい。貴方が最も憎む者の、その腹立たしい性質が、実は自
分のものであったとしても、まったくおかしくないと考えたら?
自分が彼に向けた憎悪と嫌悪が、実は周りから自分に降り注ぐもの
であった可能性もあると考えたら? 何とも恐ろしい。今日も私の
目の前で、至って賢い友人達が、誰かを嘲笑う。あるいは私も一緒
になって、誰かを貶す。しかし、それらの人々を「既に悲劇を背負
わされた者」と見るとき、その運命が自分のものであったかもしれ
ないと考えれば、自分を賢い人間、彼を愚かな人間と考えてあざ笑っ
たりすることはできないはずなのだ。彼の運命は私の運命であたか
も知れず、彼らに対する私の友人達の嘲りは、いつ何時私に向けら
れないとも限らないのだ。
愚かな人間、憎むべき人間を前にしたとき、彼らを憎み蔑む人々を
前にしたとき、私は現実の厳しさと自分に降りかかるかもしれない
運命を思いやって、慄然とするのである。