我々の世界はいつの日にも問題を抱えており、それを解決するた
めに、あるいはせめて軽減するために、既に幾多の先人達が莫大な
労力を費やしてきた。その成果を、いま、どう評価するか。私は
「何の役にも立たなかった」と述べたい。
第一の理由を挙げよう。価値は全て非客観的であり、根本におい
て非論理的である。あらゆる価値は主観の存在を前提として初めて
成立する。すなわち、あるひとつの状況がどれだけの問題を抱えて
いるか、どれほどの負の評価を与えられるかは、主観を通じて初め
て決定される。しかし主観を通じてのものである以上、この評価は
客観的・定量的には把握し得ない。従って、ある一瞬において世界
が含む問題の総量は計測し得ない。従ってある二時点間の世界が含
む問題の総量の差を計量することもできない。故に、ある偉人の一
生をかけた営為が、どれほど世界の問題を軽減したかを定量的に評
価することもできない。では、何をもって彼がこの世界の問題を軽
減したというのか。
世界が含む問題の総量は、これを主観がどう評価するかによって
大きく変動する。問題の総量の決定要因は人々の主観であり、いく
ら現状において認知されている問題の軽減に取り組んだところで、
世界の状況に対して決定的な影響は与え得ない。
では、人々の主観に訴えてはどうか。世界の問題の総量の決定要
因が人々の主観にあるのなら、その主観に訴えてはどうか。ここに
第二の理由を挙げることになる。この世界の事象は複雑な因果関係
によって時間的・空間的に互いに結びついているが、この因果関係
を通じて発生する作用が問題となる。
問題はそれ自体としては解決すべきもの、困ったものと考えられ
よう。それでは問題は悪いものだ、と結論して良いだろうか。問題
は我々を苦悩させ、我々を考えさせ、我々を賢くし、我々を崇高に
する。問題は我々の成長のために不可欠であり、我々の偉大さとい
う「果」は我々が抱える問題という「因」に依存するのである。問
題が極めて少ない社会では、人々は幸福に日々の生活を楽しみ、そ
れ故に彼らは不幸に対する耐性がなく、不幸に直面した者の気持ち
を理解できず、いつまでも幼く、いつまでも締まりがない。負の価
値を減らすことは、実は負の価値を増大するのだ。世界の負の価値
を殲滅は最大の負の価値を有する。
最後に、第三の理由を挙げておきたい。これは第二の理由ともや
や似ているが、世界が抱える問題の殲滅を価値あるものと判断する
のは、一体如何なる価値判断によるのか。一方で価値は飽くまで非
客観的であり、根本において非論理的である。他方、主観ではとて
も認識しきれない「世界」を対象としたり、主観が絡んでは達成し
得ない「完全」を目標としたりする思考は、客観性と論理性に立脚
するものである。価値判断と「世界の完全な〜〜」という概念は、
まったく別の世界に属しているのだ。価値判断は主観的カテゴリで
あり、それを客観的な「全世界の」「完全な」といった言葉と結び
つけるのはカテゴリミステイクと言わねばならない。
第三の理由が、最も根本的と言えるのではないだろうか。主観で
認識し得ない規模に対して価値判断は下せない。故に全世界の問題
の完全な殲滅は、価値判断を受け付けないナンセンスな概念である。
価値判断は、ただ一個の主観が関わりうる範囲においてのみ下しう
る。すると、過去の偉人達の営為も、決して全世界へのかけがえの
ない貢献などではなく、飽くまで彼個人が認識した問題に対する、
彼の主観の中だけで完結する、個人的問題解決とでも言うべきもの
である、と。
そして、一個の主観はそれで満足して死んで行くであろうが、世
界の状況は何も変わらないのである。