本稿は大学における講義「経済人類学」の最終評価のために提出されたレポー
トである。このレポートが大学の学生論文集に掲載された。この論文集は大学
の教養教育の成果を外部に発信することを謳った、学部1、2年生の論文・レ
ポートを集めたもので、毎年25〜30の作品が掲載される。なにぶん短期間で
用意したため、ほころびの目立つ粗雑な小論だが、短期間で仕上げる事も実力
の内であろうし、私の思索内容を(拙速であれ)一足先に開示するものとして
適当と思われたので、ここに掲載した。内容について特に補足の必要があると
すれば、本レポートが価値観の恣意生・相対性という論点を回避しており、そ
の点で苦しい辻褄合わせを行っているという事であろうか。
なお教官の論評の文頭伏せ字「XX」は著者の名字を置き換えたものである。
<課題>
「講義で扱った南米インディオの経済の今日的意義をいくつか指摘せよ」
<教官の論評> −小林芳樹教官
XXレポートは、考察の視野の広さと推論の大胆さで群を抜いていた。とりわ
け、彼の「イマージュ」論には、大いに興味がそそられた。それは、消費を軸
に社会的あるいは共同主観的な価値体系を提出しようとする試みと考えられ、
まだ荒削りでまた十分にその全体像が展開されていないとはいえ、社会科学に
おけるその主張の正当性と可能性を感じさせるに十分であった。なお、講義を
担当したものとして、本レポートに多少の注意点を指摘しておく、レポートで
紹介された「ボフェダールの経済」、アンデス農牧社会に見られる「危険分散
戦略」等は、講義全体のテーマを必ずしも代表するものではないし、これは当
然の事であるが、それぞれの紹介も筆者自身の強いバイアスがかかったもので
ある。講義の利用の仕方は如何様であれ、その内容は、ともかく、筆者の遠大
なプランの展開の一助になったことは確かなようである。
<本文>
0、はじめに
本レポートを書き始めるにあたって、2つのニュース報道を紹介したい。
1、日本の不況が長引く中、ある失業者が自宅の庭で石油をかぶって焼身自殺
を遂げた。
2、クリントン政権下の好景気に湧くアメリカで貸倉庫が増加した。借りるの
は購入したものを家にしまいきれなくなった一般の家庭で、ある肥満気味
の婦人はNHKのカメラに向かって「家にもものが溢れていて、もう一つ
倉庫を借りないと入りきらない」と語った。
1の物語には、ひとつ奇妙な点がある。自殺するほど経済的に困窮した者が
なぜ石油と庭付きの家を持っているのであろうか。アダム・スミスは「分業の
進展に従って生産力は向上し、人々は豊かになる」といったことを述べたが、
この見解からすると、この物語における自殺者より遙かに持ち物が少ない平均
的なヤノマミ族(アマゾン・インディオ)は一族総入水くらいしてくれなけれ
ば具合が悪いが、幸か不幸か彼らの生活は我々が見る限り、この自殺者よりよ
ほどマシなように思われる。
2の物語をみるとき、我々は皮肉に顔が歪むのを禁じ得ない。彼ら裕福な中
産階級が市場経済の勝利者であることは論を待たないが、発展途上国の貧困や
環境問題を思い出すとき、彼らの姿はひどく醜悪、蒙昧に見える。これをもっ
て市場経済の勝利者と言いって良いのであろうか。そう言えるとすれば、市場
経済とはなんであろうか。
市場経済、及びそれを賛美する経済学説には、どこか納得し難い部分がある。
しかし我々はこれらを相対化し批判可能にするツールとしての計画経済・共産
主義を失ってしまった。この失われた役割を、私は本講義のテーマであった南
米アンデス・ボフェダールのそれに求めてみたい。それが私の呈示する、「南
米インディオの経済の今日的意義」である。
───────────────────────
1、価値をめぐって
まずはじめに価値について考えたい。我々が市場経済を賛美するのも、そこ
に問題を見出すのも、これ全て自己の価値観に基づいて社会状況を診断した結
果である。従って市場経済を支持する、経済学の価値理論の問題点を指摘し、
かつこれから論を展開するに当たって必要となる、充分に強固な価値論を構築
せねばならない。
<経済学の理論>
市場経済を支持する経済学の例として、ここでは試みにアダム・スミス、リ
カード、マーシャルの所論を検討する。スミス、リカードは共に自由貿易を推
進しようとする人々が好んで依拠する理論家であり、マーシャルは現代経済学
において規制緩和を主張するミクロ理論の源流に当たる理論家であること、ま
たこの三者は現代経済学へと通じる「正統派」の経済理論家と広く考えられて
いることから、(本人達の真意はどうあれ)ともに市場経済を支持し、そのグ
ローバリゼーションを正当化する役割を担わされている経済学者と考えても、
そう見当はずれではないと考えられる。
彼らが提起した価値理論を検討する。スミスの理論体系の中で、財の価値に
ついて説明する理論に相当するのは「支配労働価値説」と呼ばれるもので、「
ある人が労働の結果生産した財の価値は、その財によって購うことの出来る他
人の労働時間によって計られる」と説明される。リカードの価値理論は「投下
労働価値説」と呼ばれ、「財の価値は、その生産のために投入された労働時間
に等しい」となる。(マルクスもリカードと同じ価値理論を採用している)こ
れらに対してマーシャルの価値理論である「効用」の概念はかなり趣が異なる。
すなわちある人物が財を消費したとき得られる満足を「効用」と称し、財の消
費量と生じる効用の関係を関数として捉えるというものである。
これらの価値理論が抱える共通の問題は、「財を消費する主体」という観点
が欠落しているという点にある。その問題が最も顕著なのはリカードの所論で
あるが、彼の論では財の生産のために労働時間を投入すれば、消費主体とは無
関係に、財が客観的な価値を有するということになり、一定量の労働が投入さ
れた自動車は、道路の存在しないアマゾンでも一定の価値を有するという奇妙
な結論が導かれてしまう。
次いでスミスの論をみれば、彼の述べる通り財の価値が、それによって購い
うる他人の労働時間に等しいとすれば、消費者が如何にバカげた量の財を所有
していても、それが市場で他人の労働を購いうる財であれば価値があり、価値
を所有している消費者は幸福、過剰な財の所有も何ら問題はない、ということ
になってしまう。スミスの「価値」は生産者の手元に留まっている財の価値で
あって、それが消費される社会についての価値判断に関しては、彼の価値論は
沈黙している。
マーシャルの論は、財が消費者によって消費され、満足を与えて初めて価値
を有すると考えた点、およびある財の与える満足は、個々の消費主体毎に異な
ると考え、それを効用関数の差異として表現した点で、一見消費の主体を視野
に入れているように見える。しかしマーシャルに端を発する新古典派経済学が
描く消費の風景は、「完全雇用分の生産=その時点の技術水準で可能な最高水
準の消費が為される」という素朴なものであり、消費主体が最低限どれほど消
費せねばならないか、最高どれほど消費しても構わないかについては何事も語
られてはいない。我々がこの論文で問題にしているような奇妙な事柄は、マー
シャルの所論では、起こるはずのない問題か、起こっても認識されない問題で
ある。
古典派・新古典派の理論が価値・消費についていかにも素朴な論しか持ち合
わせていないことから、現代において財貨と価値に関する、極めて杜撰な思考
がまかり通ることになる。消費できる物資の量が多いことをもって豊かさの指
標とする点において、我々の豊かさの概念・物質的な価値の概念は、国家が購
いうる財貨の量(=財貨を購うために必要な貴金属の保有量)をもって富と考
えたスミス以前の経済理論以来、進歩していないのだ。
ここから問題が生じる。一つは我々の現状を認識するための枠組みを持てな
いがために、我々がこれほど多くの財貨を消費しながら、なおも欠乏を感じる
理由を「人間の欲望には限りがないのだ」などという曖昧な言い方でしか表現
できずにいること、もう一つは、価値についての考察が杜撰なままに、大量消
費を一つの要素とするアメリカ型、欧米型の経済・社会・政治システムが刻々
と個別的な文化を飲み込みつつあることである。
<経済人類学の教室から 〜価値とイマージュ〜>
以上で試みた価値をめぐる現行経済学についての反省と、いわゆる「未開社
会」からのヴィジョンを併せて、人間と物質の価値をめぐる新しい理論の構築
を試みたい。新しい理論に要求されるのは、消費の主体を充分視野に入れてお
り、好ましい消費の風景を描き得ることである。
そこで「未開社会」と我々の住む先進国社会を比較してみたい。「未開社会」
に分類される社会の殆どは(いみじくもスミスが指摘したとおり)消費される
財が先進国社会よりも少ない。しかし、彼らが貧困にあえいでいるかと言えば、
必ずしもそうではない。もちろん彼らの社会を理想化することはできないが、
しかし伝統的な生活スタイルを守って、特に悲惨とも思わずに生活しているこ
とも多い。一方の先進国社会では、驚くほど大量の財貨を消費しながら、なお
子供を大学に入れるだけの金を賄えなければ貧乏という事になる。
ここで一つの事実に気付く事が出来るだろう。すなわち「どれだけの財を消
費せねばならないか」は、社会によって、更に言えば個々人によって、異なる
という事である。同じように、「どれだけの財を消費しても構わないか」も個
々人毎に異なる。では、これらの基準は何によって形成されるのか。「どれだ
けの財を消費せねばならないか」については、例えば「公的な場ではスーツを
着るべきであり、公的な場に出ることがある人は当然スーツを所有していなけ
ればならない」といった社会的に強制される消費や、「一日三食に間食が付く
のが社会の習慣で、それだけないと何か寂しい」といった社会習慣に方向付け
られる消費、「自分は毎日タバコ一箱を吸わないと落ち着かない」といった個
人的に方向付けられる消費などが存在するが、これらは全て、消費主体の主観
を通して基準としての体裁をとる。社会的強制や社会習慣の圧力があっても、
それを無視する者はいるのであって、こうした圧力の存在が直ちに消費のスタ
イルを決定するわけではない。ある人の主観はこの圧力を非常に強いものとし
て捉えるし、またある人の主観はこうした圧力を歯牙にもかけない。このあた
りの事情は「どれだけの財を消費しても構わないか」についても同じ事であろ
う。こちらは社会の他の構成メンバーへの配慮、あるいは環境問題への関心や、
美意識によって形成されると考えられるが、やはり主観を通すことになる。
この「主観」という漠然とした言葉で表された概念を「イマージュ」という
概念で捉えなおす。我々が生きる社会・世界・あるいは宇宙全体に対して持つ
個々のイメージの集合に、それらの対象についてのイメージから帰結される自
分に対する全般的なイメージを加えた物として「イマージュ」という概念を定
義する。つまり、我々はある世界の中で生きているが、我々はその世界の中に
存在する事物について、例えば「安定した職は生きていくために必須だ」といっ
た様々なイメージを持っている。そして、その集合から、自分についての全般
的なイメージ、例えば「当然自分は大学までの教育を受けねばならず、就職活
動を行って少しでも良い職に就くべきだ」といった、ある像を思い描く。この
世界認識と、その中での自己に対するイメージの総体を、個々の「イメージ」
と区別するため、便宜上「image」のフランス語風の発音から「イマージュ」
と命名する。イマージュは価値の本体である。なぜなら我々は主観を通しては
じめて世界を有意なものとして認識しうるのであり、その主観は世界の諸事象
に対するイメージの総体=イマージュによって彩られているのだから。イマー
ジュの中には自己、及び自己の生存空間の、「あるべき姿」を構成する様々な
イメージが集積されており、そのあるべき姿に合致するよすがとなる事物には
正の価値が、逸脱の原因となる事物に対しては負の価値が与えられ、イマージュ
の体系に含まれない事物に関しては、我々はどう評価してよいか分からなくな
る。
イマージュは価値の主観性、恣意生を前面に押し出すため「効用」のように
数学的な扱いをすることは難しいが、多くの財を消費しながら、なおも貧困で
なければならない理由を「主観性」によって説明してくれる。またイマージュ
が恣意的であることから、あるべき消費の姿は個々のイメージの操作によって
恣意的に修正可能という結論も導ける。そしてここから、市場経済の福音に対
する疑念が生じる。すなわち、第1に市場経済は我々に多くの財をもたらした
が、同時に我々のイマージュ変化も呼び起こしたのであり、我々が物質的発展
の歴史と思っていたものは、実は高度化する「必要」と高度化する生産の、差
の開かない競走に過ぎなかったのではないかとの疑念。第2に我々が消費しう
る財は増大したが、それは(主に環境問題などの理由で)行ってはならない消
費だったのではないかという疑念である。
───────────────────────
2、経済・生活をめぐって 〜貨幣愛と伝統愛〜
我々は新たな価値論を手にした。これによれば価値基準とは我々のイマージュ
の中から生じる。従って次なる問題は、イマージュの内容がどのようなものに
なっているかという事である。ここで特に問題となるのは、イマージュの内容
のうちでも、特に市場経済、及び市場経済を批判するツールとして我々が期待
を寄せている南米ボフェダールの経済という2つの経済システムを律する、中
心的な価値観の源泉となっている部分である。
市場経済とボフェダールの経済では、何が中心的な価値となっているか。そ
の経済圏で生きる人々の多くは、何をもって「あるべき姿」としているか。こ
こで印象的なのは、ボフェダールにおいて週に一度ひらかれる集会「アサンブ
レア」における議論である。彼らはそこでしばしば「伝統からの逸脱」を問題
とし、誰それの行動が伝統から逸脱している、していないと激しい言い争いに
なることもあるという。取り敢えず彼らが伝統に価値を置くという事が、この
事実から分かる。そのことが彼らの経済にどのように影響しているか。
そこでボフェダール経済の実態を概観する。本講義の中では、彼らの経済は、
特に交換に注目すると、
1、基本的に自給自足(ボフェダール造営・管理、大規模放牧、季節移牧といっ
た技術が関係)
2、足りない穀物などを、週に一度の市で手に入れる。
3、その際は基本的に物々交換で、貨幣は得ても、すぐに消費しきってしまう。
4、市で手に入れた財は、翌日のセクトール単位でのアサンブレアの場で分配
される。
と纏めることができよう。
このうちの第三項目「物々交換」に関して、講義の中で更に興味深い事例が
紹介された。彼らの間にもリャマ・アルパカの毛を買い付ける欧米資本が入り
込んでいるが、ボフェダールの人々は獣毛の国際価格を知っており、なかなか
世知辛い交渉をして見せる。その際に得た貨幣はラジオなどの電化製品や、
サッカーチームのロゴ入りTシャツなどといった贅沢品に支出されて、決して
日常的に消費する必需品には使われないというエピソードだ。ここから幾つか
の示唆的な事実を見出せる。
・彼らは愚かではない。より多くの価値を得ることに敏感である。
・彼らにとって貨幣は伝統的な生活と関係が薄い。
・彼らは貨幣を蓄積しようとしない。
すなわち、彼らは利益に賢く、おそらくは貨幣の蓄積によって富を獲得し得
ることも理解できると思われるが、彼らが伝統的な生活を行おうとするとき貨
幣は必要ないのであり、その帰結として貨幣を蓄積しないと考えられる。ある
程度の資産を貨幣のかたちで蓄積することは当然のこととされる先進国市場社
会との違いは極めて印象深い。
では市場経済の中で人々が貨幣蓄積に励むことの根幹にある、市場経済にお
ける「あるべき姿」とは如何なるものか。実は我々の社会では、我々は如何に
あるべきかという議題は、議論の主題として非常に好まれながら、殆ど答えの
見つかるためしのない議題なのである。なぜそうなるのか、我々は説明しうる
価値論をもっている。「イノベーション」を起こし続ける我々の社会は極めて
変化の激しい社会であり、我々の前には恒常的に新しい事物があらわれる。今
まで出会ったことのない事物に対して知り、イメージを形作るには時間がかか
る。従って我々は恒常的にイマージュの中にそのもののイメージを含まないよ
うな、従って如何なる価値判断を下してよいか分からないような事物に囲まれ
ているのである。我々がイマージュを通して認識すべき社会状態はごく短期間
で過去と断絶を繰り返し、我々のイマージュは現実に対し常に貧困である。こ
のような社会では、伝統に対するセンチメンタルな憧れすら、「伝統」を表現
する目新しい記号を追いかけているに過ぎないという事になる。
しかし、その中でも殆ど普遍的に見られる価値観が存在する。すなわち、
「より良い事物」を求める価値観である。これは伝統という現状を良しとする
ボフェダールの価値観とは好対照をなす。伝統をもって良しとする社会に、新
たに獲得すべき「より良い事物」は存在し得ず、あったとして伝統の枠内にあ
る、既知の「より良い事物」でしかない。しかしボフェダールにおける伝統は
現実の生活として人々の前に実体を伴って存在するが、「より良い事物」は常
に未来の事物であり、従って未だ実体を結ばぬ事物であり、そのようなものを
我々は必ずしもリアルに思い描くことはできない。そこでボフェダールの人々
が価値を見出す伝統そのものを維持しようとするのに対し、我々は自身が価値
を認める「より良い事物」そのものに代わって、経済生活の上では、「より良
い事物」を手にする事を可能ならしめる「貨幣」を蓄積しようとするのである。
これらの価値観が非合理的な主観によって規定されていることに鑑み、これを
「伝統愛と貨幣愛」と称しても良いだろう。(ただし、J・M・ケインズの翻
訳書において「貨幣愛」という言葉が「資産選択において安全性への欲求から
人間が見せる、貨幣への非合理的な愛着」として用いられているが、この貨幣
愛とは細部が多少異なる。ケインズの「貨幣愛」はあくまで不況の時代におけ
る金融の動きという彼の興味に規定されている。もっとも、異なるのはそれだ
けで、興味の範囲が変わればケインズの「貨幣愛」はそのまま本レポートで使
われる「貨幣愛」と同概念となろう)
ここに市場経済の悲劇がある。第一章の末尾で述べたとおり、市場経済が実
現した大量消費の福音は、一方で人々のイマージュ変化によって吸収されてし
まったのではないかと考えられる。そして第2章でこれまで述べたことから、
大量になされる消費の内容は賢いものとは限らないと言える。そもそも人々の
消費を決定する価値観はイマージュによって極めて主観的に形成されており、
しかも市場経済においては、その主観的で当てにならないイマージュすら満足
に形成し得ないのだから。実際の我々の消費生活を省みれば、「高給取りだが
趣味もなく、仕事一本で生きてきたが、ふと虚しくなる」「配偶者は高給取り
だが、仕事一本で家庭を顧みず、自分はストレスを溜めている」というイメー
ジは、もはや使い古された「消費社会の勝利者」の虚しい姿を代表するイメー
ジであり、また消費者として生活を謳歌しているからといって、その消費の内
容はおおよそ文化的とは言えない低級な物であったり、本人ばかりは良くとも
環境問題につながる生活スタイルであったり、あるいは食物の過剰摂取による
不健康、モニターを見過ぎる事による視力低下など、消費によって返って生活
を蝕む事も多い。新聞には貧しいたたずまいの古い町並みが消えることを嘆く
エッセイが掲載され、貧しかった若い頃を懐かしむ歌が名曲としてもてはやさ
れたりする。
そこで第一章末尾で呈示したもう一つの疑問が現実味を帯びてくる。ボフェ
ダールの経済活動は、たとえそれが非合理的な伝統愛に基づいていても、少な
くとも長い時間のなかで試された「大過ない方法」によって経済を運営してい
るのに対し、市場経済の日々拡大する活動は、それが長期にわたって問題なく
運営可能ものかどうか、誰も知らない。
───────────────────────
3、安全性をめぐって 〜経済競争・環境問題〜
第1章、第2章で市場経済の福音に疑問を唱えてきたが、ここで更に進んで、
市場経済がはらむ危険性について考えてみたい。その過程でボフェダールに見
られる様々な経済活動の習慣が、その内に様々な安全性の鍵を織り込んでいる
ことが見て取れるだろう。ここで問題となるのは、第1に市場経済の原動力と
目される競争原理、第2に国際的な分業を含む巨大・複雑な経済・政治構造、
第3に国家による福祉政策である。
<競争原理>
競争原理は市場経済を支持する経済学においては、資源の最適配分と生産技
術の向上を促し、社会をより良いものにすると考えられている。しかし、資源
の最適配分の帰結である「完全雇用分の生産=その時点の技術水準で可能な最
高水準の消費が為される」というビジョンを、我々は既にその前提となる価値
論から批判した。ここでは更に他の観点から、競争原理の批判を試みる。
競争原理は根本的に動的な原理であるという点に注目する。競争原理は常に
経済主体同士の対立と競争を要求し、向上の努力を怠る者は市場から排除され
る。このような原理が働く社会において我々が目撃している事態は、1つには
大企業による生産・小売業の席巻と小規模経済主体の敗北であり、1つには次
々と生み出される新たな商品・サービスによる目まぐるしい社会変化である。
第1点目の大企業による市場の席巻について、我々が日常的に目にしている
国内におけるそれは、確かに都市デザインや表象文化論の問題にはなるだろう
が、ここで問題としたいのは国際的な現象としての大企業の活動である。競争
原理は企業に利潤をあげるための不断の努力を要求するが、そのような企業活
動が伝統的な経済活動を営んでいる社会に接触したときに悲劇が起きる。大企
業による安価な製品の流入が地場産業を破壊してしまうことがある。また経済
の大規模化が起きれば、そこに新たなカネ、人の流れが生じ、古くからの経済
関係、人間関係を解体してしまう可能性がある。このような変化はゆっくり進
行すれば、町の変化として許容可能かも知れない。しかしあまりに早く起きれ
ば、そこにあった伝統愛は暴力的に否定される。そして競争原理の中にある大
企業は、こうした変化を可能な限り迅速に起こし、素早く利潤をあげようとす
るであろう。
第2点目だが、競争原理が社会変化を早めることは、生産力向上の反面で様
々な問題を生みだしてきた。環境破壊・有毒化学物質の食品などへの使用、イ
ンターネットが生み出した新たな社会問題などが例として挙げられる。意図さ
れた変化は、しばしばこうした問題を生じる。例えば農業の産業化によって単
一作物のみを広大な面積にわたって作付けするようになると、安定性の低い極
端な生態系を生み出すことになり、栄養分・細菌の構成等の面で土地が劣化し
たり、害虫・病気が蔓延しやすくなるという悪影響を生じ、これを無理に実行
するために殺虫剤・消毒液や化学肥料による土地の調整が、必然的に必要となっ
てくる、といった類である。ある目的のために意図的に変化を起こすと、一定
の成果は得られる物の、別の所に問題が生じる。生じた問題を解決するために
別な変化を意図的に起こすと、その技術がまた別な問題を引き起こすという、
いたちごっこのような側面が見られる。先端医療の導入で人口の爆発的に増加
したインドに「緑の革命」を持ち込んで食糧増産を計ったところ、多量に散布
した水が地中の塩類を析出させ、今度は塩害に悩まされているといった風景を
見ると、そのようなイメージを抱く。
これは人間の社会や自然環境というものが我々が認識するにはあまりに複雑
であり、一つの変化が他のどのような変化につながっていくかを我々は完全に
は予測できないところに由来すると私は考えている。地球の環境は過去にも常
に変化し続けており、地球環境に変化が生じること自体は単純に悪いと決めら
れる事ではない。しかしあまりに急激な、しかも同時多発的な変化は、システ
ムに様々な問題を生じさせ、システムの構成員に被害を与えたり、最悪システ
ムを崩壊させる危険性を孕んでいるが故に否定される。資本主義社会特有のめ
まぐるしい変化は、そのめまぐるしさの故に我々の住環境の明日を危うくする
面を持っているのだ。
大規模農業生産で行われる広面積への単一作物の作付けと比較して、ボフェ
ダールで行われる、数種の種を混ぜて撒く方法は生態系の観点から見て、極め
て合理的である。彼らの安全保障策はいずれも伝統の中で持続可能性が立証さ
れた方法なのである。否、自然環境の中で複数の植物が混在している状況を模
したこの農法は、何億年という生命の共生の歴史によって保証された方法だと
も言えよう。
また、本質的ではないが農業に関しては資源の最適分配と技術革新の帰結で
ある増産が単純に良いことと認め得ない理由が、イマージュの変化ということ
以外にも考え得ることを付記しておこう。資本主義の展開と共に、アメリカを
始めとする新しい農業生産法を取り入れた地域では、農業生産の大幅な向上が
見られた。また現在もアフリカを中心に貧困が無くならないことを理由に、更
なる技術革新でより多量の穀物を生産すべきだとする意見も多い。こうした農
業の技術革新は、市場経済の枠組みの中では農業資本やバイオ産業によってな
されるが、ではこうした農業生産の増大は飢餓を救いうるのだろうか。結論か
ら言えば、こうした形での農業生産の増大はアフリカの貧困を救いはしないと
思う。理由は2つある。一つはアフリカがなぜ人口過剰になったかということ
だ。出生数が減らずに死亡数だけ減ったから、人口が爆発的に増加し始めた。
現在アフリカなどでは飢餓のために多くの人が死んでいっているという。言い
換えれば食糧の不足が人口増加に歯止めをかける圧力になっているということ
である。この圧力を単純に取り除けば、導かれる帰結は人口の更なる爆発と、
より大きな人口での飢餓の発生ではないだろうか。マルサスの有名な命題は「
食料生産は等差級数的にしか増えないが、人口は等比級数的に増える」という
ものだが、技術革新こそが食糧増産の鍵を握る今日では「人口は常に増え続け
るが、食料生産は間歇的にしか増えない」と言えよう。この意味で飢餓を救う
のは、食糧の増産であるよりは教育の普及、家族計画の普及である。
もう一つの理由は、増産された食料を手にするのは誰か、という問題である。
むろん新技術で食料生産を増大させるのは、アメリカを始めとする、新しい農
業を実施している地域である。技術革新でまず最初に生産力を向上させるのは、
それだけの技術を開発・導入する力を持った国々である。そして彼らはより安
い価格で生産した食料を貧困地域に輸出し、あるいは援助物資として有償・無
償の援助の形で貧困地域にもたらすのであろう。安価に輸出された農業生産物
は現地の農業を駆逐するであろう。また援助物資は飢餓を根本的に救うにはあ
まりにも少ないことが大半であり、ある程度充分な量が確保されれば、援助を
受ける人々に援助に頼ってしまう体質を生み出す原因となる。(これらは援助
物資を配布する国連職員が、実際に抱えているジレンマである)この意味で貧
困を救うのは、後進国に国民が生活できるだけの産業をひらくプログラムと、
国民が安心して生産活動に従事できるような政治的安定の確立である。
ここから次のように帰結される。食料を増産しても、喜ぶのは穀物価格が下
がってより多くを消費できるようになる先進国の非農業労働者と生産を増大さ
せた当の農業資本のみで、自ら農業生産を行っている貧困国の農業生産者は追
いつめられ、また最貧国の飢餓に苦しむ人々は、その貧しさに伴う無教育もあっ
て、食料があるだけ人口を増やしてしまい、飢餓から逃れることは出来ない。
<巨大・複雑な経済・政治構造>
「ボフェダールにおいては自給自足がある種のイデオロギーのようになって
いる」と講義で紹介されたが、これは市場経済と著しい対比を為す。アダム・
スミスは分業を生産力向上=幸福への鍵であるとしたが、ここで例として取り
上げたいのが、動物と植物の差異である。昨今動物のクローン技術は現実の物
となっているが、植物に関しては15年以上も前から可能になっていた。それ
というのも、植物は分断されても生命を維持することが容易で、かつ切片から
植物体全体を再生する能力も持っていたからである。2、3の点について人間
と植物を比較したいが、まず人間は基本的に消化器官がなければエネルギー摂
取ができず、呼吸器がなければガス交換ができない。一方の植物は葉緑素を持っ
ている細胞ならばどこでもエネルギーを合成でき、ガス交換も細胞単位で行え
る。人間は体内循環の経路に根幹に相当する心臓、太い血管が存在し、そこを
破損すると循環が立ちゆかなくなる。一方植物は循環が個別的で太い管はあま
り無いため、循環経路が一部破損しても全体の生育には問題がないことがある。
また人間では神経系によって情報を集中的に管理しているが、植物はそのよう
なシステムには頼っていない。
この対比が、ちょうど現代資本主義社会における経済・政治ネットワークと
アンデス社会の垂直統御の対比とよく照応する。我々の経済・政治は複雑に体
系化され、相互の依存関係を深める中でダイナミックな物になっていったが、
同時に一個所でも流通が乱れると世界中に影響が及ぶ、極めて脆弱な体制とも
なったと言い得るであろう。
また、国家や大企業が個人に財やサービスを提供する場合のことを考える。
たとえば大企業が大工場で製品を生産した場合、その製品が消費者の元に届く
までに傷んでしまうことを避けるため、梱包が必要となる。それが食品であれ
ば、賞味期限を延ばすための添加物や特殊な調理が必要となる。国家が福祉を
提供する場合、第一に社会保障を必要とする人についての情報収集にコストが
かかり、第二に社会保障を行う対象の中に不可避的に無駄・不足が生じてしま
う。これらは需要と供給を一致させるための、あるいはそれらが一致しないこ
とによるコストである。この点でも需要者が供給者でもある自給自足の体制は
有意義だと言えよう。
<国家による福祉政策>
ボフェダールのカバーニャは家畜を分有し安全を図るためのシステムとして
機能しているが、より重要なのは「カバーニャ」という組織そのものだ。カバー
ニャはある種の互助組織としての機能を持っていると思われる。日本などでは
多く親族集団が相互扶助の単位であったが、同一の資源(遺産・家督など)を
めぐってしばしば対立も抱える親族組織と比べ、カバーニャは結成・解散があ
り得るという可塑性の故に、より安定した一面を持つのではないだろうか。
とにかく、このような互助組織は資本主義社会においては解体されてしまっ
ている例が多く、その機能を国家の社会保障政策が担う形となっている。しか
し先述の通り、社会保障政策は社会主義国家の非効率と同質の問題を抱えてい
る。小さな社会単位で相互扶助を行っていれば、その人に扶助が必要かどうか、
如何なる扶助が必要かは細やかに把握され、必要充分な扶助が与えられること
になろう。また互いに顔の見える関係なだけに、子供の養育などでも信頼のも
とに助け合うことができ、また子供が社会と関わりを持ちつつ成長してゆくこ
とが出来る点で、現代日本などで問題になっている子供の教育問題に関しても
優れた制度であると言えるのではないだろうか。
現代資本主義社会は環境問題の上でも経済ネットワークの上でも破綻の可能
性を抱え、ますます緊張が高まってゆくだろう。そして内部に生活する人々は、
経済学が囁くほどの幸福を得ることはできないまま、教育や福祉の面で続出す
る問題に、対処し切れていないように見える。このような事態を前に、我々は
伝統の維持を志向し、小規模ネットワークの長所を活かしたアンデス社会に、
何らかの参考を求めるべきではないだろうか。
───────────────────────
4、まとめ・より抽象的な問題
<一般的、普遍的と個別的、在地的>
以上、資本主義社会を主にアンデス・高地インディオの暮らしと対比させな
がら、多角的に批判を試みた。第1章・第2章では市場経済の福音に疑義が呈
され、第3章では市場経済の危険性が指摘された。
第3章で2、3の視点から呈示された危険性は、全て資本主義社会に見られ
る一般性・普遍性・小回りの悪さに帰着すると言って良い。そして本講義の最
後に紹介されたカール・ポランニーによる、文明を断絶し結び直される紐とし
て描く文明観によれば、強い中心性を発揮し、一般性・普遍性を追求した文明
は、やがて崩壊し、後には何も残さないと言う。確かに、タワンティン・スー
ユーが追求したトウモロコシの単一作物栽培や太陽神信仰がまったく後に影響
を残さなかったという事実は印象に深い物がある。これは以上の論の枠組みで
説明し直すと、ある文明が経済・社会構造において「普遍」を強く押し出した
とき、その普遍は小回りが利かぬが故に個々の人間の生活を律するような細部
を持ち得ず、また中心性を持つネットワーク独特の脆弱性から中心となる権力
が消失すると同時に、システム全体が存続し得なくなったため、完全に崩壊し
て何も残さなかったのだと解釈できる。ここから、現代の資本主義・グローバ
ル化社会もまた普遍性を前面に押し出した文明であり、やがて亡びるだろう、
という考えが登場することになるだろう。
しかし、ある批判から如何なる結論を導くべきかという段階では注意せねば
ならない。私はまるで現代資本主義社会を完全に否定するかのように、様々な
角度からその問題を指摘したが、だからといって本当に資本主義社会を否定す
ることが、正しいことだとも現実的なことだとも思わない。現実性に関して言
えば、ほとんど皆無であろう。現代の資本主義社会は様々な矛盾を抱えている
が、少なくとも大恐慌が起きているわけではなく、未だ強固な様子を見せてい
る。また正しさだが、私が以上で展開した資本主義批判から資本主義を悪の体
制であると結論づけるのは、全くの誤りである。私が指摘したのは現行資本主
義の抱える問題点であって、それが資本主義と絶対に切り離せない物だなどと
は論証していないし、ましてやそれが故に資本主義が転覆するなどとは、断じ
て述べていない。そもそも資本主義の崩壊を予言してお終いというのでは、本
講義の趣旨に反するであろう。本講義の最終レポートの課題は「南米インディ
オの生活・コスモロジーの今日的意味について幾つか指摘せよ」というもので
あったが、南米インディオの生活習慣やコスモロジーを今日の社会と比較して、
今日の社会のために何か提言できると考えるからこそ、このような講義がもた
れるのだから。
ルソー・マルクス等は「未開社会」に一つの理想を見ていたが、今日我々は
そのような薔薇色の「未開社会」観を、もはや有してはいない。それにはそれ
で問題があり、例えば伝統を重んじる社会では個人の自由が制約される可能性
が高く、また孤立性の高い社会では、別な文化が出会って新たな文化創造が華
開くといった事も起こらない。我々が研究し、思惟するのは少なくとも資本主
義社会のネットワークの上に確立された知の共同体においてであり、これほど
広い視野と広範な情報を与えてくれるのは、まさに資本主義とその発明物のお
かげだと言わねばならない。古来文化が華開いたのは、常に通商の拠点として
経済的に繁栄し、複数の文化が交錯した都市においてであった。そして問題含
みではあるが、今日我々が目にする文化は南米インディオの文化とはまったく
違うものであり、独自の価値をもっているのだ。
実際、タワンティン・スーユーと現代資本主義社会では、何点か大きな違い
が存在する。まず第一に、タワンティンスーユーはわずか数十年の間に普遍的
な政治・経済・宗教・言語・度量衡体系を支配地域に広めたが、ごく短期間で
滅亡してしまい、それらが住民に根付く暇がなかったのではないかと思われる。
それに対し現代資本主義体制は、既に述べたとおり我々個々人のイマージュを
大きく変貌させており、その影響は既に我々の中に深く根を下ろしていると言
える。第二に、タワンティン・スーユーは過去との断絶の目立つ文明だが、現
在世界を席巻しつつある政治・社会・文化体系は、少なくとも複数の、紀元前
より続く連続性を踏まえた体系だという事だ。ヨーロッパ文明の母胎と考えら
れる地中海文明・メソポタミア文明の影響を受け継ぐ我々は今日までもソクラ
テスを読み、旧約聖書を研究する。また周に起源を持つ黄河文明にしても、今
日でも孫呉の兵法にビジネスのヒントを得ようという発想が存在している。こ
れらの影には完全に断絶したカルタゴや長江文明などは存在したが、これらの
文明だけは、今日に至るまで影響を残して我々の文化の中に劣化していない姿
を認めることができる。そして今日、かつてない「記録」への要求が盛り上がっ
ている。活版印刷術の登場によって既に文書が散逸する可能性はかなり低下し
たと思われるが、それに輪をかけて、今日のデジタル技術は膨大なデータを散
逸せぬよう収集しようとしている。この動きが加速されれば、歴史・文化の断
絶はますます起きにくくなるであろう。
どんな物にしても、「永遠に続く」などという事は信じがたい。今日の文明
もまた、いつの日かは終わりを迎えるのかも知れない。しかし、現代資本主義
文明が断絶すると言っても、それが千年後に起きることならば、その将来の破
綻を今主張する意味はほとんどない。むしろ、資本主義の問題点を、文明論・
文化論でもって詳細に検討し、補ってこの社会の矛盾を軽減し、破綻せぬよう
な方向性に導くことこそが重要なのであろう。そしてそのために、非資本主義
的な経済の営み、「人間の経済」について知ることは、我々が思索を展開する
にあたって極めて示唆的な内容を与えてくれることであろう。