先日、一人でふらりと上野の森美術館に『ニューヨーク近代美術館展』を見
に行った。友人から招待券をいただいて、出不精の私も、ふと有名絵画にお目
にかかろうかという気になったのだ。
行ってみると、なるほど、さすがと言うほか無い。有名芸術家のオンパレー
ドである。一人一人の作品が少ないから今一つ掘り下げるというわけには行か
ないが、二大戦期の現代芸術の潮流を、まざまざと感じることが出来る。ピカ
ソ、マティス、シャガール、アンリ・ルソー、デュシャン、カンディンスキー、
ブランクーシ、セザンヌ等々、他に誰がいたかと忘れるほど、有名芸術家の作
品が所狭しと並んでいる。それだけに気ぜわしい年末の平日だというのに客の
入りは多く、館内なかなか賑やかであった。子供がつい足下の線を越え、警備
員も大変そうだ。私は絵を一通り鑑賞すると、今度は絵を見る客を観賞し始め
た。
その館内の一角に、ダリの絵が二枚ほどあった。あの『記憶の固執』もある。
私は不勉強にして彼の絵の実物を見たのは初めてだったのだが、周囲の客と共
に、その小ささに些か驚いた。小さいスケッチブック程度の大きさしかない。
彼の多作ぶりを考えれば不自然でもないが、彼の緻密な描き込みのなせる業か、
もっと大きな絵とばかり思っていた。
サルバドール・ダリと言えば『記憶の固執』であり、「垂れ下がる時計」だ
ろう。客も二枚ならんだうちの、『記憶の固執』のほうを指さしている。小さ
な絵で客が近づくものだから、人だかりが出来ている。一般に難解の代名詞扱
いをされているピカソより、彼の方が人の集まりは良いだろう。
しかし、と思う。ダリはそんなに大衆ウケする画家だろうか。現実問題とし
て目の前に賑やかな人だかりを見ながら「大衆ウケするか」と問うても仕方の
ないことで、既に答えは目の前にあるのだが、しかし私は違和感を感じる。
あのダリが? あのダリの絵が? あのただれ、ねじ曲がり、膿を生じ、なお
妄想と欲望をむき出しにする、地の果てのごとき荒涼とした大地にならぶオブ
ジェの一群が? あの絵が皆に好かれ、親しまれているというのだろうか?
結論を言えば、ダリは愛されているのではなく、消費されているのだと思う。
彼の絵の中で最も有名な絵が『記憶の固執』であることは、その如実な証明で
はないだろうか。
『記憶の固執』は、彼の絵の中でも特異的に生々しいイメージを感じづらい
絵だ。彼の特徴的などぎつい表現は、この絵でも脈々と息づいてはいるのだが、
前面に押し出されていない。少なくとも、血がにじみ、骨がむき出しになった、
義足で支えなければならない、いびつな形をした肉塊は描かれていない。ただ
中央に何だかよく分からないものが転がっているだけだ。そして人だかりの注
意は、枝から溶けて垂れ下がる、奇怪な時計にむけられている。金属質に輝く
懐中時計からは、生々しい空気は感じられづらい。むしろ、何となく『モモ』
の時間泥棒などを思いだし、SF的な、ファンタジックなイメージを受ける。
自分の部屋に歪んだ時計を置いてみれば、遊び心があって、ちょっとカッコイ
イ感じもする。
しかし私の考えでは、これらのイメージはダリ本来のものではなく、ダリは
正しい理解を受けられないままに、都合良く使われていると思う。「ダリは愛
されるより、むしろ消費されている」のだ。これは私の素人考えではあるのだ
が、『記憶の固執』の主題は「垂れ下がる時計」よりも、むしろその隣の、
「蟻が群がる時計」にこそあるように思われる。
この絵に画家がつけた題は(例によって不勉強で、邦題しか知らないのだが)
『記憶の固執』である。彼の画題は説明的なものが多いから、これを手掛かり
に考えて良いだろう。そして彼の絵はしばしば、欲望や情念と言った人間の暗
部を白日の下にさらけ出してみせるという方向性を持つ。では『記憶の固執』
とは何か。ここに描きだされた人間像は、記憶を固執させているのだ。「固執」
は良いイメージの言葉ではない。記憶が、何かに頑迷にこだわって、真実・理
屈を受け入れようとしていないのだ。画家はそのような頑迷な記憶の在り方を、
生々しく描き出している。記憶=時間=時計は腐りかけており、蟻がたかり、
蝿が飛び回り始めているのだ。時計の表面につぶつぶと並ぶ黒い斑点は皮膚病
を思い起こさせて極めて病的なイメージを掻き立てるし、虫たちのうごめく様
は、麻薬中毒者が見るという幻想にも似ている。しかも蟻たちは、みな時計の
中心を向いている。強い指向性を持って集まっているのだ。本物の蟻はこんな
動きはしない。画家は意図的に、蟻を一点に集中させたのだ。その様を見てい
ると、人の記憶が如何に強固に一つのイメージに群がるか、あるいは腐りかけ
た記憶が、如何に強力な腐臭を放つかを語っているように見える。人間の記憶
は不十分な情報量しか持っておらず、主観的な判断を含んでいる。そこに欲望・
情念の入り込む隙がある。
ある児童虐待を受け続けた人は、大人になっても親と和解しきれないと言う。
「親は虐待を認めず、『お前は言うことを聞かない子だったから、少しきつく
しつけた事もあったね』などと言う」というのだ。ここで親にとって真実は
「自分はしつけを行ったのだ」という事であって、子が心理学者やソーシャル・
ワーカーの助けを求めなければいけなくなったという事実は、過去から排除さ
れているらしい。彼女の過去は彼女に都合良くできており、彼女の記憶は固執
しているのだ。
記憶とは、過去とは、このように醜い側面を持つ。「狂気」というテーマと
も隣り合わせの概念だ。以上の事を前提として、「垂れ下がる時計」を見ても
らいたい。遊び心どころの騒ぎではない。「垂れ下がる時計」が表現するもの
は、記憶がいかに激しく歪み、たがを失ってだらしなく形を崩し、だらだら溶
けて絡み付くかと言うこと、人間の最も醜悪な一側面なのだ。それを見て喜ん
だり、それに着想を得て作られた「歪んだ時計」を壁に飾って喜んでいたりす
るのは、よほどシニカルな人間だと言うべきではないだろうか。私はダリの絵
のレプリカなど、恐ろしくて日常の中にはおけない。置くとして、せめて仕事
部屋だ。それでもますます仕事が暗く、小難しくなりかねない。ダリは嫌なの
だ。興味深く、衝撃的だが、よほどの覚悟がなければ親しむ気にはなれない。
ダリの前の人だかりは、彼の絵の緻密さと時計を溶かした発想力を讃えても、
彼の絵がもつ狂おしい人間の暗部への視線には触れていない。シニシストの集
会ではないらしく、私はいささか安心した。が、ダリは満足か。私には、彼が
消費されているように思えてならない。