<価値序論・補論3 〜価値の便宜上の分類〜>

制作日:2003年5月17日


 価値について論ずる前に、論の混乱を避けるために価値を2つに分類してお
く。さし当たっては「相対価値」と「絶対価値」と名付ける。
 両者の違いは例を用いて考えれば分かりやすいであろう。たとえばある人が
空腹でどうしようもない時、そこが都市部であれば、普通はどこか飲食店で食
べ物を買おうとするだろう。ところが懐には一銭もない。食べ物がほしい、金
がほしいと、誰もが思うところであろう。
 このとき、この人は貨幣と食物を欲しているが、両者を均等に欲しているわ
けではない。貨幣は食物を入手するために必要なので、貨幣が手に入っても食
物がいらなくなるわけではないが、逆に食物が手に入ったなら、もはや貨幣は
(当面は)必要なくなる。貨幣は食物入手の手段として欲しているのに対して、
食物は端的に「ほしい」のだ。大まかに言って、何かの手段としての価値、そ
れそのものが価値を有するのではなく、他の価値あるものの入手に役立つから
という理由で認められる価値のことを「相対価値」と称し、手段ではなく、そ
れそのものとして価値が認められる、他の事物から独立して認められる価値を
「絶対価値」と呼び、両者を区別しようという事である。

 しかし、ここで賢い人なら、この分類があまり確たる分類法ではないことに
気付くだろう。既出の例を用いるなら、こういうことだ。「貨幣は手段として
欲しているのに対して食物は端的に欲していると言うが、食物もまた空腹を満
たす手段なのではないか」と。あるいは、こうも論じ得る。「貨幣は手段とし
て欲していると言うが、何に支出するという当てもないのに、ひたすら貨幣を
欲する守銭奴の類にとっては、貨幣が相対価値しか持たないとは言えないので
はないか」と。
 こうした問いには、回答として2つのことを述べねばならない。ひとつは
「相対価値/絶対価値という分類は個人の主観の内に形成されるものとして定
義される」という事、もうひとつは「主観は極めて不安定であり、従ってその
内に形成される価値に関する判断も、相対価値と絶対価値の間で絶えず揺れ動
く」という事である。貨幣という、冷静に考えれば交換の手段に過ぎないもの
も、ある人々の主観を通してみれば、無前提に価値の認められるもの、絶対価
値を有するものという事になってしまう。逆に人命という、絶対価値を有する
ものの例として真っ先に挙げたくなるようなものでも、ある種の主観を有する
人々、たとえば戦闘に従事している軍人やテロリストにとっては条件付き、相
対的な価値しか持たないということになってしまう。また守銭奴がある日金た
めの虚しさに気付いたならば、彼にとっての貨幣の価値は絶対価値から相対価
値に変ずるだろう。軍人が戦友の死でも目の当たりにして、突然人命至上主義
の宗教者に変貌するということも、無いとは言えない。そのように劇的な状況
でなくとも、収入が必要だからやっているに過ぎないと思っていた仕事が、い
つの間にか人生の目的になっていたことに退職してから気付くというのはよく
聞く話である。

 そのように主観に依存し、両者が容易に入れ替わるものを、わざわざ別概念
として分ける意味があるのかと疑問が湧くかも知れないが、この疑問には「あ
る」と答えよう。価値について論ずる上で、この分類を立てないと面倒が生じ
る。「価値は確かに存在するか」と問い掛けたとき、この「価値」が相対価値
を意味するとすれば、回答に求められる内容は(「AはBの入手に役立つ」と
いう形式が存在するとき)「Bは価値を有するか?」「Aは本当にBの入手に
役立つか?」の2点となる。後者は純技術的問題に過ぎない。前者は「(Aに)
価値は確かに存在するか?」の「A」が「B」に置き換えられただけで、「価
値は確かに存在するか」という最初の問いに答えるには、今度は「Bは価値を
有するか?」に答えなければならない。もしBの有する価値も相対価値でしか
ないとすれば、今度は「BはCの入手に役立つ」という命題が立てられ、また
も「Cは価値を有するか?」「Bは本当にCの入手に役立つか?」の2点に答
えねばならなくなる。「価値は確かに存在するか」という一般的・抽象的な問
いに答えるには、相対価値を排除して絶対価値に的を絞った論を展開せねばな
らないのだ。こういった点で「相対価値/絶対価値」という分類は意味を有す
るのである。