<なぜ形而上学か>

制作日:2003年8月20日


 あらゆる前提を排除して根本から考えることを目指すとき、形而
上学は余計である。なぜなら形而上学と呼ばれるものは、まさにき
ちんと論理的に考察されていない、考察することが困難な「根本」
であり、排除されるべき「前提」そのものだからである。形而上学
はカント以来、論理を尽くして論じても結論のでないような事柄と
されている。ある人の形而上学を別な人が否定しようとして議論を
始めると、これはいわゆる神学議論・スコラ議論(=無意味な言い
争い)になってしまう。形而上学とは、そういうものである。「彼
の論は彼独自の形而上学に基づいている」と言えば、それは暗に
「彼の論は充分に論理的とは言えない」と言っているのである。彼
が「形而上学」という名の、論理に基づくこと無しに設定された前
提を持っており、しかもその前提は「彼独自」つまり他の人と共有
されていない、彼が勝手に創造した(あるいは妄想した)ものだと
言っているのである。

 従って、私も自分の論を自分の形而上学からは独立なものとして
構成しようと努力している。しかし、ここに形而上仮説というカテ
ゴリーが存在するのはなぜか。

 論を形而上学とは独立に構成しようとしても、その人の興味関心・
発想はその人の形而上学と密接な関わりを持つ。形而上学はその人
の世界認識の傾向を示す。従って、私が自分の論を自分の形而上学
からは独立なものとして構成しようと努力しているにしても、私が
本来隠し持っている形而上学を呈示することは、恐らく私が何を論
じようとして、どのように論じており、ある場合にはどのような誤
りに落ち込んでいるかを知る上での、私の論考の読み手達にとって
の便宜になると考えるのである。読者諸氏の便宜のために、そして
読者諸氏に私の体系を、私の全体を、私という人物をより容易によ
り良く理解していただくために、私はここに私の形而上学を開示す
る。それは非論理的であり、独断的であり、断片的であり、ある時
には神話的で、あるときには教訓説話のようであり、またあるとき
は子供っぽく、ある時は宗教じみているかも知れない。理解する必
要はない。『10形而上仮説』は便宜のために存在する、補助的なカ
テゴリーなのである。