テロリズムは言論に訴えない問題解決手段である。(問題解決手
段といっても、実際に問題を解決できる手段かどうかは検討の余地
があるが、少なくともテロルを実行する者は、それが問題解決に寄
与すると信じて行うのであろうから、少なくとも彼らにとっては1
つの問題解決手段である)議論や論法について研究する上で、この
テロリズムという手段をどう考えるべきか。
まず第1に、テロリストという存在を社会から完全に排除するの
は難しいということを指摘しよう。テロリストを非難する人々は、
暴力は何も生み出さない、話し合いで解決しよう、と呼びかける。
ここには暴力は問題解決手段たりえないという考えと、政治的主張
よりも人命を尊重する考え方が見られる。一方、テロリストは話し
合いが問題解決の手段たり得ず、人命は政治的主張(それはしばし
ば崇高なものと考えられている)ほど重要ではないと考えているか
ら、テロルを実行するのであろう。
パレスチナの如くテロルと対話が絡み合って進行しつつ、未だ問
題は解決されていない、という状況においては、(現に問題を解決
したという実績がない以上)対話もテロルも問題解決手段として有
効だと主張すべき確たる根拠がない。このような状況下でテロリス
トに「対話こそが有効だ」と言い聞かせても、あるいは対話を主張
する者に「テロル以外に解決の手段はない」と訴えかけても、いず
れも大して説得力がない。ある手段が有効かどうかは、ここでは信
念の問題であり、信念は理解や論証の問題ではなく、信じるか信じ
ないかの問題なのである。
また、人命と政治主張のどちらが崇高で大切か、という問題は価
値観の問題であるから、根本的な部分に非論理性を抱えており、理
屈を説いても埒が開かない。人命は何物にも代え難いと、あるいは
この政治主張は崇高にして譲渡し難いと、「思わせる」ことができ
なければ、いくら理屈を説き、考えさせようとしても無駄である。
以上より、テロルに訴える事は話し合いによる解決を目指すこと
と比べて論理的に劣った解決策だというわけではなく、どちらの方
法を採るかは信念や価値観の問題であるから、理屈を説いてテロリ
ストを転向させることは難しいし、今いるテロリストを転向させて
も、テロルへと向かう価値観や信念を生み出す素地が無くならない
限り、テロリストは新たに生まれ続けるのだ。テロルを絶対的に否
定する事は難しいが故に、テロルは状況次第でいつでも生まれてく
る可能性があり、根絶は困難である。
第2に、テロルは1つの政治参加の方法として、社会から要請さ
れるものであるということを指摘したい。政治に問題意識を持つ人
々は、自然と政治に参与する方法を要求する。このとき、政治に参
与する方法として言論の道が閉ざされている場合(19世紀ロシア
など)や、言論の道があるにもかかわらず、それに参与する能力が
ない場合(教育水準が低く、政治状況が理解できないし、政治状況
についてどう発言したらいいかも分からないような場合)あるいは
言論が政治参与の道として意味があると思えない場合(国連という
言論の場があっても、結局は大国の意志が通ってしまうと考えるの
はこれに相当する)には、言論の道が閉ざされている以上、物理的
なパワーに訴えるよりほかない道理である。
要請されれば登場しないわけがない。テロルは社会の要請によっ
て生まれてくるのであり、テロルは悪い、悪いと言うのであれば、
まずはこの社会のテロルに対する要請を何とかする算段を立てねば
ならないだろう。
少なくとも人命は尊いの、暴力は良くないのと騒いでいるだけで
は、テロルはなくならないという事を銘記しておきたい。