思想を、その書物に封入された内容より、社会によって受容され
る有様に重点を置いて眺めると、「思想の意味は、社会に受容され
たときに発生する」と言う事ができる。ところで、社会が1つの思
想を理解し受容するとき、しばしば誤解が生じる。いつの世にも早
とちりな人はいるものだし、早とちりな人の間違いが広く共有され
てしまうということも、ままある。
思想を、その書物に封入された内容に重点を置いて眺めるとき、
このような誤った理解は、その思想とは関係ないと考えられがちで
ある。その思想の内容はあくまで書物に書かれている通りのもので
あって、書物に書かれている内容と違う内容に歪められてしまった
「誤った理解」は、既に別物に造りかえられてしまった思想であっ
て、もとの思想とは似て非なるものである、と。当然、誤った理解
を根拠として破壊的な社会運動が展開されたとしたら、その誤解さ
れてしまった元の思想を語った思想家は無罪で、それを誤解した人
間が、起きてしまった破壊的な社会運動の全責任を負う、という結
論が導かれる。
しかし、それで良いのだろうか。おそらく「無罪」という判断を
下された思想家氏は納得しないだろう。社会のために良かれと思っ
て構築した思想が、誤解されて破壊的な結果を生んだとき、誤解す
る者が悪い、思想家氏は悪くない、と言って、それで万事解決だろ
うか。思想家氏は社会のために良かれと思って思想を構築したのに、
まったく社会は良くなっていないとしたら、かえって悪くなってい
るとしたら、万事解決だろうか。そんなはずはない。思想家氏は自
分の目的が達成されていないことに苛立ちを覚えるだろう。
つまり、思想を書物の中に閉じこめて考えるのは無理があるので
ある。思想は社会を変えるべく構築され、実際に社会を変えるので
ある。そうである以上、社会を如何に変えたかは思想の重要な一部
である。たとえ誤解された結果生じた影響であっても、それはその
思想の1つの帰結である。それによって思想家氏が激しい弾劾に
あったのでは堪らないだろうが、かといってまったく無罪放免でも
終わらない。誤解もまた理解の1つの形であり、誤解によって生じ
た結果もまたひとつの結果なのである。思想家は己の思想を書物の
中にきちんと構築することを心がけるだけでは、その目的を達成す
ることはできない。己の思想がいかに理解され、いかに誤解される
か、という点に至るまで予測し、これを制御しなければ、必ずや誤
解によって目的の達成は妨げられるのである。まともな思想家は己
が書物に記した内容のみならず、その内容が社会に与えた影響にま
で責任を持つ。そうでなければ、この思想家は己の目的を達し得ず、
従って彼が思想構築のために払った努力も、無駄に潰えることにな
るのだから。