自分と相手が異なる主張を行っているときには、何らかの方法で意見を一致
させねばならない。怒鳴りつけるにしろなだめすかすにしろ、あるいは感情に
訴えるにしろ理論で説得するにせよ(口頭での場合、概して感情に訴える方が
うまくいく。人間の理性などいい加減なものだ)何らかの方法が求められる。
そこで、論理的かつ効果的な説得方法はないものかと、少し考えてみる。
ここで問題になるのは、人間はしばしば感情に束縛されるということ、そし
て人間はイメージに強く影響されると言うことだ。第一の感情の束縛だが、ど
んなに我を抑えて冷静になろうとしても、感情は一片の抵抗となって理性・論
理に反逆する。そこで、意見の異なる相手を説得する際には、できるだけ相手
の感情に邪魔をさせないように、できることなら感情・感覚をくすぐってうま
く使いたいものだ。次いで第二のイメージだが、つまるところ相手のイメージ
を誘導して、「論破された」という反感を感じさせないようにする、あるいは
その判断こそは自分の採るべきものだと思わせること。これができれば感情を
敵に回さず、むしろ味方に付けさえして説得を展開できる。これらを完璧に
やってのける人間がいれば、彼は交渉術の天才であろう。実際には、これらの
ことはなかなか難しい。
では、以上の事を前提とすれば、その難しいことを可能にするために、説得
というものには具体的に如何なる手順が求められるであろうか?まず相手の論
が誤りを含み、その結果として導かれた結論が有効でないと指摘することは大
前提だ。相手の論が過ちを含むと宣言せずにだらだらと長い論を述べ始めても、
相手は何が始まったのか解らぬまま話を聞かされ、冗長な印象を持ってしまう
だろう。ただし、この第1段階から感情を気にしなければいけない。真っ向か
ら「それは違うよ」といって論がこじれないのは、ある程度以上相互の信頼関
係が成り立っている場合のみだ。まずは相手のいうことを認めるところから始
めて、穏やかに、自分の側の認識のミスである可能性も留保しながら反論を展
開すべきだろう。実際問題として徹頭徹尾認められない論などそう簡単にはあ
り得ないし、自分が勘違いしている可能性も常にあるのだから。ついでに指摘
しておくと、この段階で相手の論を否定したからといって、代替案を示すこと
は必要条件ではない。代替案は、現在の案が不良品であると示された後に、改
めて膝を交えて知恵を出し合い考えればいいのだから。ただし「お前は他人の
意見をつぶすばかりで、自分では何も言わないじゃないか」と言われた瞬間に
発言権がきびしく制限されてしまうから、立ち回りには気をつけねばならない。
あくまで互いを信頼して冷静な議論を積み上げたい。
次いで、第2段階として相手の誤りを論理的に示す過程が続く。第1段階も
含めて当たり前のことばかり言うと思われるかも知れないが、この過程を抜か
してしまう人や不完全にしか組み立てない人は極めて多いから、まんざらなめ
られたものでもない。
例えば私はかなり昔に放映されたゴミ処理施設建設に関するドキュメンタリー
番組で、こんな例を見た。都心のどこだかの区(あるいは都自身だったかも知
れない)の行政が、ゴミ処理施設を駅前に建設するという。都心がゴミを周辺
地域に押しつけるという事が問題になっていたので、ならば問題を見事解決し
てやろう、最新の技術を使って駅前でも問題のないゴミ処理施設を建造し、こ
ういう問題にも積極的に取り組む革新的な姿勢を見せ、都市の模範になってや
ろうではないかというわけだ。しかし駅前の商業組合は猛反発する。「駅前は
都市の『床の間』だ。床の間にゴミを積み上げておく家があるか」というわけ
だ。商業組合と行政の談判の様子がカメラに収められていたが、甚だ滑稽であ
る。「ハナハダコッケー」とでも皮肉るしかないほど、どうしようもない口論
だった。商業組合の代表は「床の間にゴミをおくとは愚劣にも程がある!」を
連呼し、行政は虚しく自らの計画を繰り返すばかりだ。ここで商業組合の代表
には、相手の論の誤りどころか、相手の主張を論理的に受けとめる意志からし
て認められない。行政は「ゴミ=避けるべき汚物」という固定観念をひっくり
返して、世間をアッといわせてやろうと言っているのだ。ところが、商業組合
は完全に固定観念にとらわれ、一向に固定観念をひっくり返そうという行政の
アイディアの根本を理解していない。世間より先に商業組合が「アッ」と言い、
「これはイカン」と反対運動に突っ走ったというわけだ。あるいは、少々譲っ
て「行政の言い分は解ったが、行政のやることなど信用できん」という主張だ
としてみよう。確かに行政府は巨大な組織であり、しかも公共事業では行政内
の「縦割り」と称される諸組織から、最前線の日雇い建設作業員まで、様々な
集団の様々な人々が関係する。司令本部の区長さんだか都知事さんだかが思い
描いた、その通りになるとは限らない。しかし、ならば「行政の計画は理解し
たが、その計画が計画通り行くかどうかには問題がある。技術的に本当に可能
なのか。実際の施工・運営の中でずさん工事、悪臭等の問題が生じる可能性は
ないのか。あるとして、どれくらいの可能性か。ゴミ運送トラックの往来が街
に悪影響を与えないか」と筋道立てて質問をすべきであろう。問題の調査をし
ろしろと言うばかりでなく、率先して調査をおこない、対抗姿勢を明確に打ち
出して自説を支持する調査結果を並べ立てるのでもなく、共同で採るべき道を
模索できれば理想だろう。青筋立てて怒鳴り散らし、いたずらに場の空気を乱
すなど、もっての外だ。自制心の欠如を暴露しているようなもので、大人とし
て情けない。行政の側にも「あなた方は固定観念に囚われていて、我々の計画
はそれを覆すものだ」と商業組合の問題認識のズレを指摘する事が必要であり、
番組が描く範囲内に限って言えば、それは見られなかった。だが残念ながら指
摘して理解する相手かは疑問だ。感情と集団心理に囚われた人間の愚かしさに
ついては、ナチスを持ち出すまでもないだろう。
さて、最後に第3段階だ。多くの人間にとって、論理と感覚は別物である事
を考えねばならない。「理屈ではわかっても、どうもねぇ・・・」と引っかか
る、その引っかかりを解きほぐすことができれば、相手はすんなりと納得して
くれよう。
さきのゴミの例で考えれば、既に第2段階で、商業組合代表が社会に通用し
ている非論理的な固定観念に囚われており、そこに彼の「つまずきの石」があ
るということは示されている。よって、彼が「自分は確かに固定観念に囚われ
ているかも知れない」と認めかけたなら、あとは商業組合代表がどんな人物か
が問題となる。先ほどの例では自分の意見に固執し、かなりとりつく島のない
人物に見えた。が、これが話の分かる、尊重に値する人物であったとしよう。
そういう人物であっても、自分の感覚というのは気づきにくいもので、自分が
なぜ誤りを犯したか、内心首をひねっている場合がある。そこで、相手の感覚
のどこに間違いが胚胎したかを、思いやりをもって、気楽な調子で指摘すると
良いのではないだろうか。例えばこの場合、商業組合の代表は新しい考えに乗
り遅れたという面があるから、「最近は社会問題とかいうものがでてきて、難
しい世の中ですねぇ。でも、一つのチャンスでもありますよ!商店街さんでも
考えてみてはどうです?社会問題に配慮していることが宣伝になる時代がきっ
と来ると私なんかは思っているんですけどね、商売は素人だから。プロの商店
街さんにまかせますよ!(笑)」などと、軽く自分を卑下して相手を持ち上げ
などして、和やかな雰囲気も作りつつ自分のもっている視点を相手と共有する
事で、相手は今までの自分を相対化し、今までより自分と違う意見を受け容れ
やすくなる。
相手が自分自身を制御しきれないような人物である場合、もう少しどぎつい
方法もある。相手の弱点に漬け込んで、自分の思い通りに動かすのだ。例えば
次のようなセリフ。
「この固定観念は社会に深く浸透しているから、それに染まって気付かない
のも無理はない事で、実際ほとんどの人がそう考えておるのですよ!だからこ
そ、それをひっくり返せば世間の連中はびっくり仰天ですよ。どうです、魅力
的な計画だとは思いませんか?この計画に反対するのは無理もない、むしろ自
然な事ですよ。我々以外にこんな事を考える街はありません。それを我々がう
まくやって成功すれば、みんな仰天するに決まっています!この駅前に世間の
注目が集まりますよ!現代の問題に取り組むモデル都市ですからねぇ!」云々。
実際はこんな妙な口調もないものだが、口調に関してはセールスマンの口調な
どを参考に、それぞれ工夫していただきたい。ポイントは相手の心理的な引っ
かかりを解きほぐすことで、この場合は相手の論理的誤りをごく自然な、誰で
も陥るものなのだと言って「自分は間違いを犯してしまった」というかすかな
屈辱感を和らげつつ、同時進行で「モデル都市の模範的な商店街」という夢を
見せ、「我々」という単語を使って敵対関係を忘れさせ、逆に初めから利害を
等しくする同胞であったかのごとく感じさせるという手法を採っている。相手
が注意力不足の野心家であれば、夢でくすぐるこの方法はうまく行く可能性が
高い。逆にやり方次第ではあるが、相手が孤高の人である場合、急に「我々」
などと言って馴れ馴れしく振る舞いだした事が鼻につき、交渉はかえって難し
くなる可能性が高い。
ちなみにこの方法はシェイクスピアの戯曲に登場する悪役がしばしば使った
手法で、魔性の君主リチャード三世や動機無き悪漢イアーゴー、マクベスに王
位簒奪をそそのかした魔女達など、悪魔的存在がよく使う手法であることは付
記しておく。
以上に相手を説得する際のモデルとして、三つの段階を示してみた。1反論
提起 2論理的段階 3心理的段階 とでもいったところであろうか。これは
あくまで理論であって、現実に即して援用せねば役には立たない。ただし、理
論としてわきまえておくことで、議論の状況や相手の状態を把握するのには役
に立つだろう。うまくいけば、議論の駆け引きに関してヒントを得ることがで
きるかもしれない。
なお一応断っておきたいが、ゴミの例に関しての細かい点はうろ覚えなので、
細部の追求はご勘弁いただきたい。ここでは「議論・説得」というものの進め
方を問題にしているのだから、私が挙げた例が真相を捉えそこねていたとして
も、この例が充分世の中にありそうな事であれば問題ない。また行政の方が素
晴らしいように思われるかも知れないが、当時はダイオキシンなど注目されて
いなかったから、「大丈夫です」などと言っても、恐らく全然大丈夫ではな
かったろうと推測される。だから地方に造ればいいというものではないが、安
全だと聞かされていた目の前のゴミ処理施設が、ある日とつぜん過去30年汚
染物質を吐き出し続けていたと知らされるというのも、ゾッとしない話である。
更に、私が述べた「本来こうすべきだ」という事柄は、実際には膨大なマンパ
ワーを要するために必ずしも最良の方法でないという事も付記しておく。行政
も商業組合も仕事は他にあるわけで、また我が身の全てを仕事に捧げるわけに
も行かない。そうなれば、大衆運動のような力押しで事を済ませることにもな
る。現実にはマンパワーを投入するコストと冷静な議論のもたらす益とを比較
して、はじめて最善の選択肢は得られるだろう。ただし、上記のような視座を
欠くために最善の選択肢からはるか遠いところを彷徨い、互いに益もなく罵り
合い、傷つけ合うこともあろう。