<他者理解の原理としての概念拡張試論>

制作日:2002年12月30日


 美術史、とくに19・20世紀の美術史を眺めると、「美の概念
は変化する」という事実に、嫌でも気付かされる。「変化」という
のは正しくない。古い美の形も、時には時代遅れといわれても、そ
の愛好者はいて、滅び去ることは少ない。一度滅び去ったものも、
再び注目され、再発見されることもある。これは「美の変化」では
なく「美の拡張」と言わねばなるまい。  アフリカ美術の発見は
「異文化理解」「他者理解」という側面も持っている。このとき起
きた出来事を検討すると、他者理解の原理とも言うべきものが、見
えてくるかもしれない。以下に軽く検討してみよう。
 アフリカ美術についての定着した(いささか陳腐ですらある)形
容は「力強い」に尽きるだろう。ところで、「力強さ」はアフリカ
美術の発見と同時に、初めて発見されたものかといえば、そんなは
ずはない。それ以前から力強さは(日本の平安朝中期のように、一
時的に廃れることはあるにせよ)しばしば人間の美徳として考えら
れている。力強さを評価する価値基準は、元々あったのである。そ
の「力強さ」という概念を、「敢えて形や色をデフォルメした表現
にも、またひとつの力強さがあるではないか」と拡張すると、美の
概念が「力強さ」という類似性を頼りに、ヨーロッパ美術の伝統か
らアフリカ美術に拡張される。かくして他者理解は成立するのであ
る。

 他者理解は、常に概念の拡張によって成し遂げられるように思わ
れる。自己との類似性を頼りに、自分の知っている好ましさの概念
を、相手の(今は理解しがたい、野蛮だ、粗野だ、不潔だ、不合理
だと思われるような)性質を包含するように拡張する。すると理解
できないと思っていた他者の行動が理解の射程にはいる。逆に相手
の性質を「意味不明」「明らかに悪質」と決めつければ、他者理解
の望みは絶たれるであろう。

 以上のとおり、概念拡張こそは他者理解の原理である、と宣言し
ても良いと思う。