民主主義は全ての主権者に「市民」たることを求める。しかし現代の政治状
況の中で「市民」としての主体的な判断を下すことは、甚だ難しい。民主主義
とはずいぶん過酷な制度のようだ。そもそも全ての人が政治に関心を持つべき
だというのもすごい話で、政治には関心を払わないという態度は、建前の上で
は否定されている。「価値観の多様性を認めましょう」と一方では言いながら、
この点に関しては多様性は認められないことになっているわけだ。
しかし、実際には普通選挙である以上、政治に関心を持たない者も市民権を
持つ一市民として扱われている。政治にどれだけ感心を持っているか、識見を
持っているかについての判断は難しいし、判断ができたからといって選挙権を
制限していいとも限らないから、この現状は建前と乖離しているからといって
否定されるべきものではないと思う。むしろ建前の方を検討すべきではないか。
論ずべきは、まず政治への関心について多様性は認められないのか、民主主
義と価値観の多様性の問題だ。そして、そもそも政治はそんなに時間の投資を
要求するほど重要なことなのか、政治そのものの持つ価値の問題だ。まず後者
の「政治は重要か」という事から論じるが、これは間違いなく重要だ。これは
王政の昔からそうだが、国家の権力は強い。故に、国家権力が暴走したときの
惨禍たるや、スターリン統治下の旧ソ連邦、ナチスや旧日本軍政の例を引き合
いに出すまでもなく、目も当てられぬものがある。この力を何とかして飼い慣
らさない限り、我々の安穏は得られない。
ならば国家に権力を与えなければいいという人は少ないだろうが、いちおう
「国家の権力は強い」のは不可避だということも述べておこう。一万年も昔の
ムラ社会ならともかく、現代では既に地球規模の緊密なコミュニティーが形成
されているのであって、これを経済・治安・安全保障などの面で運営する枠組
みとして、現在の国家のような、ある程度以上大きな枠組みに権力を与えるこ
とが必要不可欠だ。そして大きな枠組みに権力を与えれば、それに個人の力で
対抗することは難しいのだから、国家権力は強く、普段からこの力を飼い慣ら
しておく必要があるという結論に達する。
私が「政治はそんなに重要ではない」と言うのを期待していた方には申し訳
ないが、まず国家政治を市民の手の内に置いておくことの重要性は認めねばな
らない。が、人間は政治のために生きているのかと言うと、そういうものでも
ないだろう。進化生物学者はチンパンジーにも権力闘争と離合集散があること
を引き合いに出して、「人間の大脳は政治のためにある」と言うかも知れない。
が、それは隣近所や会社・学校の友達と行うローカルな政治の話で、それをお
ざなりにしてまで国家の政治を論ずるのが正しい姿とは言えまい。まずは生活
であり、あくまでその手段としての地方政治・国家政治・国際政治のはずでは
ないだろうか。
従ってどこまで政治に関心を払い、時間をかけて関わるかが費用対効果で決
まる事は当然の帰結だろう。政治に関わることでどれだけの効果があるかにつ
いての評価は、主観に基づく甚だ信用ならないものではあるが、ともかく個々
人が政治のためにどれだけの労力・時間を投資するかは、その他の生活・趣味
などへの投資との折衝で決まる。少なくとも無限の投資がなされるわけでも、
そうするのが模範なわけでもない。むしろ政治にやたらと時間を割く人間にか
ぎって、人間性の方にいささか問題を抱えていたりもする。そして、別項で述
べた通り、選挙制に基づく政党政治で「市民」として満足なほど根拠を持った
主体的判断を下すには、我々の労はあまりに大き過ぎはしないだろうか。目先
の問題としてこの労に耐える努力は必要だが、同時により少ない労力で安定を
得られる新しい方法論の模索を提言する必要があると思う。
次に政治への関心をどれほど持つかについて、多様性は認められるべきか否
かだが、これは認めてしまうと民主主義の原則が崩れかねない。が、それでも
私は認められるべきではないかと思う。理由は2つある。ひとつは、政治など
普段は考えもしないといった態度の人にも愛すべきものがあると思うからであ
り、もう一つは政治に関心があるなどと言う者に限って思考法が極端で危険な
部分を持っていたりするからである。後者は改めて解説する必要もあるまい。
私の通う大学にも左翼活動は細々と、しかし脈々と受け継がれているが、彼ら
は大して論理的に物事を考えているわけでもないにも関わらず、正義感で士気
を高め、知識と不完全な論理で武装することで己の正義を信じ、そうしてやる
事といったら、大学側と対立のための対立としか思われないような事を繰り返
し、不法占拠と強制執行の空虚で非生産的な繰り返しを続けるばかりだ。また
世界中の共産主義革命のみならず、戦前日本の軍国主義にしても、その過程に
は経済停滞に苦しむ農村の声を代弁した、政治に深い関心と憂いをよせる青年
将校、日蓮宗系教団の活動があったとも言う。政治に関心があるのは大変結構
だが、大して論理構築に優れているわけでもないのに指導者におさまり返り、
大勢を指導して極端をやらかす手合いは絶えない。だから政治に無関心になれ
というのは妙な話だが、「誰もが政治に関心を持つべきである」という先鋭的
な思考法に対しては、アンチテーゼがあってしかるべきだと私は思う。難解な
政策論議や細かなデータなど知らずとも、安定した日常の感覚を保存する人の
存在は肯定されるべきだと思うのだ。
「政治など普段は考えもしないといった態度の人にも愛すべきものがある」
というのは、説明は必要であろうか。これは個人的にそのような人に会った事
があれば説明は必要ないと思うし、そのような経験のない人がいたとして、私
の個人的体験を語ることには私自身の戸惑いもある。つまり説明などしたくな
いのだが、いちおう説明を試みよう。
政治について論じる人の問題意識は、政治以外の事柄にも必ず関心を持つ。
あるいは、万物は政治であるとも言い得ようか。とにかく、私も含めてこうし
た人々は、日常の中にも様々な問題を見出し分析するものだ。時には親しい友
人や家族にも厳しい分析の目を向けている。また、時には同じような分析の目
が自分に向けられることを恐れてもいる。いささか妄想に囚われることの多い
私がそのような目に恐れを抱いたとき、私を安心させてくれたのは、政治に
まったく興味がないとは言わないが、何かとそういう事に関心を持っている
人であるよりは、難しいことは分からないといった態度の友人たちであった。
また如何なる事にも問題を見出す批判精神も大切だが、時には物事をまった
く違う角度から見て、問題を見出し批判するよりは独特な感性で容認するよう
な、詩的な感性に出会ってはっとさせられることもある。私の記憶の中にある
いくつもの顔が、果たして国家政治というものにどれほどの関心を持っていた
か否か、それは分からないが、彼らの全てが見えないところで非常に政治に関
心を持っていたという事もないだろう。
あるいは、政治などという入り組んだことを考える論理性を持っていない人
も当然認められてしかるべきだ。彼らの論理を吹き飛ばすようなサバサバした
性格や分析するよりも受け入れる包容力など、論理を追求すればするほど失わ
れてゆくようにも思われる美徳は多い。こと政治に関与すれば扇動家・扇情家
と呼ばれかねない人々でも、我々の感情を激しく揺り動かす力は、素晴らしい
芸術のもとともなろう。かのヒトラーとて画家にでもなっていれば、そこそこ
面白い人間になっていたのではないだろうか。
ただし、ここに問題が生じる。さきに述べたとおり、こうした多様性を認め
ることは民主主義の前提に反する恐れがある。が、民主主義とて人の生んだ制
度であって、完璧とは限らない。問題があるなら、民主主義の方を検証すべき
ではないか。結論はこれに尽きる。