公民の教科書などを見ると、必ずと言っていいほど「今日の政治情勢はあま
りにも複雑で、ともすれば投げ出してしまいたくなるが、関心を持って政治に
ついて知り、市民として振る舞うよう努力せねばならない」云々と書いてある
が、私はこの言葉が胡散臭く感じられて仕方がない。その『市民』とやらの何
パーセントが責任ある政治議論を行っているというのか。また、本当にそんな
世界が理想なのか───
結論から言えば、先述のような言葉で正当化しなければならない民主主義は
欠陥制度であると思う。だからといってそれ以上に優れた制度を提示できるわ
けではないが、民主主義はやはり欠陥を露呈しつつあると私は思う。時代は変
わり、何世紀も経た民主主義ではうまくいかない所ができはじめているのでは
ないだろうか。
「議会制民主主義の黄金時代」といわれる時代を考えると、この感は強くな
る。議会制・政党政治が盛んになるのは、文化的、経済的、ないしは政治的な
分裂(ほとんどは二項対立)が一国内に存在する場合ばかりなのだ。このよう
な状況下では各政党が分かりやすいアイデンティティーを持ち得るため、国民
の主体的な政治参加は容易になる。テーマについて自分が既に持っている意見
と一致する政党、あるいは自分が属する集団の利益を擁護する政党に投票すれ
ばよいのだから。国家の発展のためには資本家を擁護すべきか、労働者を擁護
すべきか。対外発展か、国内整備か。中央集権か、地方分権か。これらの問題
とて深く考えれば決して単純な問題ではないのだが、選択肢が二つしかなけれ
ば、思い込みであろうと利己主義であろうと、とにかくどちらかを選択し、態
度を明確化できる。
しかし、時代は変わり、選択肢の時代は終わった。文化については、よほど
の右翼でもない限りあらゆる文化を尊重するという姿勢以外はあり得ない。経
済についても、資本家を擁護すれば労働者は後回しにしてもよいなどという意
見は多数の支持を取り付け得ないし、だいいち「労働者/資本家」などという
二項対立も、両者の格差の縮小で時代遅れになってしまった。政治的対立の
テーマは単一ではなくなり、あまりにも多くのテーマが存在するために、どの
政党を選べばどのような結果が得られるのか、自分はどのような政策を支持し
ているのか、もはや我々には分からない。
私には「選択肢」なる存在は二つの極に分かれて消滅してしまったように思
える。一つの極は、選択肢の一方が相手にされなくなったり、二つの選択肢を
両取りせねばならなくなった場合だ。もう一つは選択肢が増え、選択肢と選択
肢の組み合わせで更に選択肢が分化し、選択肢が無限に増えてしまった場合だ。
前者では選択肢が一つしか残されない以上選択の余地はないし、後者は様々な
選択肢のコンビネーションや新提案によっていくらでも新しい選択肢を作れる
以上、もはや選択問題ではなく記述問題である。前者はもはや政治的判断の基
準になりようが無いし、後者のような状態で判断を下すには、以下に記す通り
我々が思っている以上に高度な政治に関する知識が必要となる。
選択問題と記述問題の違いは我々が思っている以上に大きい。というのは、
選択肢から自分の政治的判断を選び取る場合、選択肢の中で「相対的に」正し
いものを選べばいいのに対して、自分で無限の選択肢を作り出せる場合、様々
な選択肢を研究して「絶対的に」ただしい選択肢を見つけ出さねばならないと
いう要求が生じてくるのだ。選択肢が二つか三つしかなく、それ以外の選択肢
をどこかから持ち出してこようという意志のない場合、我々は「この選択肢は
気に入らないところもあるが、まぁ他のよりはずっとマシだ」という程度のい
い加減さはあっても、ともかく自信を持って自分の支持する主義・政策・政党・
候補を選ぶことができる。しかし選択肢が次々と生じてくる場合、自分がその
中で最も良いと思った選択肢も、新たな選択肢の登場によって「最良」の座が
揺らぐ。そしてあれやこれやを検討するうちに、「けっきょく一番正しいのは
どれなんだ」と、他のどの考えにも増して絶対的に正しい答えを求めるように、
自然になってしまう。しかし「この世に絶対などというものは存在しない」と
いう言葉が表す通り、我々は絶対的に正しい答えを求めるようになると同時に、
答えのない袋小路に迷い込むのだ。
我々は完璧主義の罠に、未だ気付いていない。政治について知り尽くすこと
で正しい答えを導きうると信じて、政治無知過敏症に陥り、「我々はもっと知
らねばならない」と連呼し、絶望に陥りそうになると同じ意見の者同志で士気
を高めあい、民主主義は迷走を続けるのだ。私に言わせてもらえば、残念なが
ら完璧主義に陥っている限り、正しい答えなど見つかりはしない。完璧主義と
判断の問題については、別の問題とも関わってくるので別項でふれよう。
選挙戦のたびに露呈される政党制をめぐる全体的な政治の停滞と対照的に、
ときどき耳に入ってくる個々の問題に関する政治運動は、国際NGOや環境N
GOを中心に活発化の兆しを見せている。これは示唆的だ。全体的な政治の状
況については選択肢が消滅してしまったが、個々の問題の中には未だに「是か
非か」の選択肢的状況が残っている。そしてそこでなら、人々は今でも完璧主
義の罠に陥ることなく、多少のいい加減さ・雑な論理を含むにしても、一応の
自信を持って政治的判断を下せるのだ。
現在の政党政治は停滞している。そしてこの停滞は政治課題の複雑化から不
可避的に生じたものであって、民主主義が内包していた矛盾が、民主主義に基
づく社会の成熟に伴って表面化したものであると私は考える。ならば、無理に
政党の個性を出そうとしても無駄であろう。そもそも個性とは自然に発露する
ものであって、作られた個性などというものは常に虚しいものだ。むしろ現状
に合致する新たなシステムを模索し始めなければならない。例えばだが、政権
担当者を選択する事を中心とする現在の制度を改め、個々の政策それぞれにつ
いて、識者を中核とする選挙システムを確立するというのはどうであろうか。
これはひとつのアイディアということで、使い物にならない大雑把な案だが、
とにかくこうして案を出し、民主主義の見直しを図るべきではないかと私は考
えている。