<大衆運動の抱える矛盾>

制作日:2001年10月4日


 様々な政治的目標を達成するために、大衆運動という手段が執られる。

 政治目標達成の前には、意見を異にする人々が障害として立ちはだかってい
る。するとまずは話し合おう、話せば解るという発想を我々は持っていると思
うが、意見の異なる相手と意見を一致させる方法としては、大衆運動というも
のは奇妙な概念のように思われる。むしろ私の目には、大衆運動に相手と意見
を一致させる気はまったく無いように見える。
 大衆運動を見ると、その主張は決まって攻撃的になるように思われる。相手
の主張が如何に非道で、愚かで、カネの事しか考えておらず、関係者をないが
しろにしているかを徹底的にアピールする。環境保護などでは、死滅する動植
物の声まで勝手に代弁して攻撃する。そしてこのままでは失われてしまう大切
なものがあると大声で呼ばわる。そうして彼らは何をしているのだろう。運動
に賛成した人々の間で士気を高め合い、感情に訴えて仲間を増やし、署名など
で数を稼ぎ、そして結局は数の力で相手を黙らせるに過ぎないように思われな
いだろうか。路上でプラカードを振り回したところで、意見の違う人々は説得
されたりはしないものだ。公共事業の建設計画などでは代替案を示したりする
こともあるが、そのようなものが伴っても、激しい大衆運動は危険なものだ。
一方で代替案を示しながら、もう一方でお役所だの石頭だの馬鹿な官僚だのと
罵っては、当局も態度が硬くなろうというものだ。代替案の欠点をあら探しし、
自案の正当性をアピールしたくもなる。別項にも書いたが、意見の相違に出く
わした場合には、自分の意見をがなり立てているだけでは何も始まらない。ど
のような判断基準の違いが意見の相違を生んだのかを探り出し、判断基準の共
有と検証をおこない、ともに納得してより正しいと思われる判断にたどり着け
ば、それがいちばんいい。

 しかし、これも現実には仕方が無いという面もある。説得に応じなかったり、
一向にこちらの意見に耳を貸さない頑迷な相手であれば、優しくなだめすかし
て退かせるより、数で叩きつぶして通った方が手っ取り早いという場合もある。
むしろ、そのような場合が多い。公害問題などではそもそも企業が対話に応じ
ないといった歴史もあるわけで、それなら呪詛の言葉を積み上げて自分達の苦
しみと絶望をアピールし、相手企業の責任者を裁判所の保証付きの悪人にし、
(むしろ怒りにまかせて人非人とでも言いそうな勢いだ)世論の力で叩きつぶ
さなければ、苦しみはどんどん拡がってしまう。
 公害の被害者などは生存権が脅かされているわけで、それなりに苦しんでい
るのだから、相手をどのように激しく攻撃しようが、責められない面もある。
が、それで社会的に抹殺された企業責任者にとって、基本的人権は守られたの
だろうか。決して公害問題で戦った方々を中傷するつもりはない。ただ、誰も
が幸福に生きられれば、それがいちばんいいと夢想する次第だ。それが例え、
過去に犯罪的行為を行った者であっても。

 大衆運動という存在は、けっこう色々なことを考えさせてくれる。「理性の
目」のもとに書かれた人権宣言に基づく民主主義の、最もオーソドックスな政
治活動の一形態であるにも関わらず、そこには冷静よりは興奮が、論理による
正義よりは人数による権力がうごめいている。そして大衆運動で口を封じられ、
叩きつぶされ、歴史から抹殺された者達の鮮血に汚れている。正しいと思われ
ることが結局数を味方に付けなければ認められないというのも今さらながら悲
劇的だが、こうしたことを考えると、法の保証した正義とは何であったろうか
と自問せずにはいられない。