「議会」というものに関する一般の、そして一部の議員の理解について、些
か疑義を呈したい。国会で予定された質問がなされ、予定通りの答弁がなされ、
一部議員が朝の講義を受ける学生のように(失礼)居眠りしている。これは問
題だという主張がなされる。もっと議会に緊張感があって良いはずではないか。
中には「なんで質問と回答があらかじめ準備されているんだ。官僚の準備した
答えではなく、自分で考えて答えろ」とハイレベルな要求を突きつける方もお
られる。
私は議会という場が議論に適した場だとは思わない。その点では、議会での
質疑応答があらかじめ用意されていることに問題があるとは思わない。議会と
いう場がなぜ議論に適さないかという事だが、まず議会には開会時間に制限が
あり、それが甚だ短い。よって議論をしっかり詰めることが難しい。しかも相
手の発言はその場で即座に解釈せねばならず、一単語に至るまで詳細に検討し
て相手の意味するところを正確に掴むということができない。そのため議論は
容易に混乱する。そのうえ議会では人間が直接顔をつきあわせることになり、
この人々が必ずしも紳士であるとは言い難い。従ってすぐに乱闘になってしま
う。
これらを、例えば議会に持ち込む前に、前もって書類で意見の突き合わせを
行ったらどうであろうか。意見が大体かみ合うまで時間をかけることが容易に
なり、相手の主張を事細かに分析して(重箱の隅をつつくようなアマノジャク
的反論をしなければ)正しく理解することもできるだろう。発言側の感情は堅
い言葉によって抑制され、聞く側にも感情を抑える余裕ができ、かつ下品な野
次は飛ばせない。
これを実社会で実現しているのが官僚制だろう。野党側の質問はあらかじめ
なされ、その問題を専門とする人々が答弁の骨子を作成し、各行政の長が答弁
に立つときには、既に多くのことが決まっている。法案にせよ国家の方向性に
せよ、議会で決まることなど微々たるもので、大概が議会の外で決まっている。
それで良いのではないだろうか。もし議会中の短い時間で充分な資料の確認も
なしに重要事項が決定されたり、多数決の結果が議場でなされた演説一つでこ
ろころ変わるようなら、それこそ恐ろしい事になる。何事も短時間で、不十分
な認識で、議場内の興奮の赴くままに決定されれば、完全な衆愚・煽動政治の
出現も近い。前もってなされる冷静で徹底的な研究と関係者の同意は、無難な
政策をスムーズに進めて安定した政治運営を行うのに必要だ。議会の場で予定
されていなかった質問をされた大臣が狼狽して答えられなかったなどと言うと、
大臣が笑われて質問した野党議員は議会の本来あるべき姿を見せたみたいに考
える者もあるが、実は議会での質問と回答は前もって用意されていてしかるべ
きであって、この議員はそんなに偉くはないと私などは考える。
とは言っても、これはあくまで理屈だ。理屈は前提が変化すれば破綻する。
例えば、長い間続いた慣行が様々な腐敗を生んだり、何らかの全体的な状況に
変化が生じたりしたとき、無難な政策によって政治運営が安定してしまってい
ては困る。変革の朝には、変革の起爆剤となる不安定性が必要だ。既存政権が
爆弾発言で退陣させられる、改革者が官僚機構の同意を得ずに下した決定を指
導力で無理矢理押し通す。そうした事が必要なときもある。
ただし、それが常態ではあり得ないという事は意識しておくべきだろう。改
革が必要なときというのもあるが、その際は通常は避けるべき不安定の中に足
を突っ込んでいることを忘れずに、いつもよりはるかに慎重に政局運営を見守
る必要がある。そして通常は、やはり重要なことは議会の外で決まるのだ。