最も深い絶望の中に打ち立てられてこそ

希望は真に崇高である


希望を持って生きる、大変結構なことだ。
しかし現実に存在する困難を知らずに持つ希望は
子供が描く将来の夢にも似たものだ。
それは美しく微笑ましいものではあるが、
高貴なこととは異なる。

多くの困難があることを知り、なおも希望を失わなかったとして、
その希望が特定の事柄に関するものであって、
その事柄に残された何らかの可能性や
別の事柄に関しての無傷の自信に支えられているならば、
それは未だ、崇高と呼ぶには卑俗である。

多くの困難にぶつかってついに挫折し、
全ての可能性が息の根を絶たれ、
生きる意味そのものに疑義が呈されるとき、
それでもなお持続する希望がある。
そこで初めて、たどり着く希望がある。

それこそが真に崇高なる希望である。
真に崇高なる希望は時を選ばず、場を選ばぬ。
いかなる困難も、この希望には傷ひとつ付けることは出来ぬ。
状況によらず、全ての人に希望を与え得る。

かかる希望を持ち続ける人をこそ、崇高な人というべきではないだろうか。