若さとは常に贖いを求めるが

常に彼自身の身によって贖われるとは限らない


我々が情感を込めて「まだ若い」「若かった」という時、
その若さとは、生まれてから経過した時間で計られるものではありません。
若さとは誰もが持っている愚かしさのことです。
それは若者だけが持っている物ではなく、老人に絶対ないものでもない。
それによって成し遂げる事もあれば、それによって傷つくこともある。
我々が溜息をついて語る「若さ」とは、そのようなものなのです。

若さとはしばしば罪であり、贖いを求めるものです。
しかし、常に若さを持っている、その人自身の身によって贖われるとは限らない。
むしろ、他人の身で贖われることが多かったりするものです。
その殆どに、人は気付くことはない。
自ら痛みを感じなければ、若さは相手が肩代わりした贖いの痛みに気付かないのです。

しかし、ある時に、相手が肩代わりした痛みに気付きます。
多くの若さに自分の身で代償を払い、人は多くの傷を負うでしょう。
しかし相手の瞳の中に失望を見出すとき、自分の身で負ってきたはずの幾多の傷よりも、
他人の身によって贖われたその一つが、最も深い痛手となるのです。

そうして何かを失い、少しずつ若さを失ってゆくのです。